İsmet Berkan コラム:なぜ彼らはPKKに加わったのかを考えずには解決しない
2012年11月16日付 Hurriyet 紙

「我々の同胞は何故山に入るのか」との質問を問わずに何を問うというのか。

ジュディ山での衝突で、2人の女性を含む計5人のPKKの構成員が死亡した。いつ?11月4日、つまり今から12日前のことだ。

彼らの遺体は現場で放置されていた。死者の遺族は、自身の子供達が亡くなり、さらにその遺体がどこで放置されているのかも知っていた。(そのため)現場に行って遺体を回収し、葬儀を行いたいと望んでいた。

検察局に申請が行われた。検察局は「差し支えありません。あなた方が(現場に)向かうことは可能ですが、遺体はまず我々に引き渡していただくことになります」と(遺族に)説明した。何故なら、死亡した者達は戦闘で亡くなったからである。司法解剖、身元確認を行うこと等が必要とされた。しかし、誰も引き取り手がなくても、検察局がその遺体に関心をもつことはないのは明らかだ。

家族は、軍警察と一緒に山を登り、岩場で遺体を見つけ、あたりの雑木から担架を作り、遺体を麓まで下ろした。それで軍警察のヘリコプターに(遺体を)乗せ、シュルナクに解剖のため搬送した。

これら全ては2日前に起こなわれた。その一部始終を撮影した多数の印象的な写真がある。昨日のポスタ紙の一面はこれらの写真で飾られていた。

考えてみると、息子達、兄弟達、親族達とは、山に入り、PKKに参加し、その後転じて自身の国で自国の軍や警察と衝突し、その衝突で亡くなった若者達なのだ。

彼らに「祖国の裏切り者」と言うことは最も容易いし、現行法に照らし合わせば、それはその通りである。

しかし同時に、トルコは、この「祖国の裏切り者達」を次々に殺し、捕まえ、どんどん刑務所に投げこんでも、(若者達が入ることを)止めることは出来なかったということでもある。

何故、他の国々ではなしに、我が国ではこれ程多くの「祖国の裏切り者」が出るのか。こうもしぶとく出続けるのか?

この子達は我々の同胞ではないのか?何故我々の同胞の一部は、概ね各家族の反対にもかかわらず、PKKに参加するのか?何故、自身の国に対して武器をとり、山の頂で、岩場で死んでいくのか?

彼らの行いは、認められたり、受け入れられたり、合法とされることではないのは勿論だ。しかし、行為が違法であるからといって、その原因に関心をもつことを妨げるものではない。

残念ながら、28年も続くこの不毛なサイクルにおいて、あるいはこの血みどろの戦争において、我が国も、我が国の学界も、この根本的な問いをしてこなかった。すなわち「この子たちは何故山に入るのか?何故テロリストになるのか?」と。

この理由を、あるいは複数の理由を知れば、おそらく、そうした原因を取り除くことに成功し、またひょっとすると、おそらくこのお陰で、(トルコが)世界で最も多くの「祖国の裏切り者」を輩出する国であることから免れるかもしれないのだ。

共感について言っているのではなくて、ごく簡単な(原因探求への)努力について述べているのである。理解と共感はそれぞれ別々の事柄である。しかし、 我々は、相手のことを理解することさえ、「祖国の裏切り者への親近感」とのレッテルを張りかねない、選ばれし国民なのだ。

兵士の様子を窺いながら、子供達(の遺体)をPKKの旗にくるむことが、ジュディ山やシュルナクの、そしてあらゆる地域の「普通」のことになってしまったら、この状況に少なくとも関心をもち、幾つかの理由を探ることは必要ないのか?

その原因に関心をもつことさえ禁じているのだ。でなければ、国家のそして学界の無関心を他にどうやって説明出来るというのか?博士課程の学生達 は「今、この子供達は何故山に入ってPKKに参加しているのか、という研究をしたら、PKKの一味との悪評がたつ、関わりたくない」と考えるだろうか?

全くその通りだ。理解する努力さえ、我々に幾つかの事を気付かせるかもしれない。一部の者が決して思い出したくないこと。例えば、亡くなったPKKの構成員達のほぼすべてが我々の同胞であること、また我々と同じ学校に通い、同じ様に「私はトルコ人だ、正しくて、勤勉だ」と大声を出すことを強いられていること、このことに思いが至るかもしれない。

それとも、いつも我々は正しく、残りの者は皆正しくない、と考えるのだろうか?

(だとしたら)自身を完璧で完全だとこれ程信じ、(一方で)いつも他人を誤っていると考えること、これに学問的名称をつけなければならない。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:28269 )