Şahin Alpayコラム:EUの玄関外でまった50年
2013年01月05日付 Zaman 紙

アンカラが、時の流れの中でEUに生まれ変わった欧州経済共同体の「加盟候補国」となって、50年目に入った。

しかし、アンカラがEU加盟に真剣になり、議論になったきっかけは、1987年に故トゥルグト・オザル政権期に行った加盟希望であったことは忘れられてはならない。

1963年に欧州経済共同体(ECC)への加盟候補国になった主な目的は、その1年前に加盟候補国となったギリシャに遅れを取らないことだった。

なぜなら当時、トルコは輸入発展戦略を実行していた。そして、トルコのエリートたちの間では「彼らはパートナーだ、我々は市場だ」という考え方が主流だった。EU加盟が本当に望まれるには、1980年以降の発展戦略の自由化、そして、1980~83年の間の軍事政権が皆に政治的自由と民主主義の価値を教える必要があった。

そう、トルコは「半」まではいかないものの、四半世紀のあいだEUの扉の前にいるのだ。加盟候補となるために、1999年まで待たなくてはなら なかった。コペンハーゲン政治的基準を「十分に」実現したあと、2005年に加盟交渉を開始した、2001年~2004年のあいだ、つまり、前の三党連立政権でもって開始し、そして公正発展党政権で継続するために採択された改革でもって、「静かな革命」が実行された。このことを不可能にしたのは、ドイツとギリシャの政権が1999年以降トルコを排除する政策をやめたためであり、そして、全体としてEUが改革を力強く支援したことで、国内でEU加盟への支持が75%までに上昇したためである。

残念なことに、協議への開始決定のすぐあとに、EU内でトルコをメンバーに迎える熱意は費えてしまった。フランスのニコラ・サルコジ氏、ドイツのアンゲラ・メルケル氏が政権の座について、トルコに「特権的パートナーシップ」を提案し始めた。問題を解決せずに(ある人によれば大いなるうかつさで、ある人 によればトルコの道を遮るためにわざと)EUに正式メンバーとして認められたキプロスの南キプロスギリシャ系住民管理地域が、(トルコの)加盟を(キプロス)問題解決を有利に進めるために利用し始めた。

アンカラ(の政府)だけでなく、トルコの世論も、EUへの熱意をそがれた。もしEUが正式加盟へ向けての支援を続けていたら、間違いなくトルコの多くがコペンハーゲンの諸々の基準を満たしていただろう。

今日、加盟交渉で焦点となる点は次のものだ。35項目のうち、たった1つが開けられて、閉じられた。13項目が協議を開始した。EU理事会は(関税同盟がキプロスまでに拡げられていないため)8項目、フランスは(加盟するために)5項目、キプロスの南キプロスギリシャ系住民管理地域は(アンカラ政府によって承認されていないため)6項目、合計で(いくつかは重複しているが)17項目がブロックされた。交渉が待たれる残りの項目のうち3項目の交渉開始について、EUに対し有利にたつためアンカラ政府は交渉を開始しない。

アンカラ政府は、キプロスの南キプロスギリシャ系住民管理地域がEU議長についた期間中、協議を凍結した。キプロス政府から議長を(本年)1月1日にアイルランドが引き継いで以降、トルコ・EU関係であたかも何かの動きがあるようだ。ドイツ外相ギド・ヴェスターヴェレ氏は、「2013年の上半期では、複数の項目をトルコと協議しなければならない。そうでなければ、将来トルコへ寄せる関心は、トルコが我々に寄せる関心より大きくなるだろう」と話した(12月22日)。イギリスの前外相デイヴィッド・ミリバンド氏は、フランス大統領オランドに協議を活性化させるよう呼びかけた(フィナンシャル・タイムズ12月28日)。(議長国)アイルランドは、アンカラにパリから2項目の協議開始に関するシグナルが来たことを知らせてきたが、まだ明確なものは何もない。

EUとの関係について私の態度は、何年も変わっていない。トルコはヨーロッパでの平和と民主主義の砦の中に入らなくてはならない。しかし、トルコを受け入れるか拒絶するかは、EUの選択だ。トルコにとって、加盟よりもさらに重要なのは、コペンハーゲン基準を実現することである。

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( 翻訳者:門野淑香 )
( 記事ID:28781 )