Fikret Bilakコラム:メフメト・アリ・ビランドを送る 
2013年01月20日付 Milliyet 紙

我々にこの職業とは何か教えてくれたメフメト・アリ・ビランド氏が旅立っていった。私が本紙で働き始めた頃、彼はベルギーの首都ブリュッセルで特派員をしていた。アンカラを訪れる際は必ずアンカラのオフィスに立ち寄った。勢いよく中に入り、オフィスにいる人たちにエネルギーや活 気を与えたものだった。いつもまずはニリュフェル・ヤルチュン氏やヌル・バトゥル氏と話し、後に我々にも話しかけた。話題の紙面の記事について矢継ぎ早に質問を投げかけ、オルハン・トルカン氏と話し、来たときと同じ勢いでオフィスを後にした。アンカラに来る際は必ずオフィスに来てからブリュッセルに戻っていった。

このような短い訪問の間にも我々にいくつか提案をしてくれた。「あれを見た方が良い」「この話題は追っているか?」「進展はあったか?」など、我々を方向づけてくれた。

親しみやすい新聞記者であった。インターン生でも分け隔てなく誰とも関わった。記者や記事ともに大小で扱い方に区別をしなかった。本紙で良い記事があれば必ず記者を褒め、記事をどのように続けていくのかアドバイスをし、励ました。ブリュッセルからイスタンブルに戻ってきた頃、我々とより親交を深めた。アンカラのオフィスから紙面を飾る記事が出ると必ずや電話をくれ、「これからも素晴らしい仕事を続けてくれ。祝福したい」と激励の言葉を送ってく れた。

■外交記事の開拓者

メフメト・アリ・ビランド氏は、トルコに世界の扉を開かせた人物の一人である。ブリュッセルで記者をしていた頃、EU連合、北大西洋条約機構、キプロス問題などのニュースは、彼が担当していた。1970年代にはトルコはまだ閉ざされた国であったため、キプロス進駐問題とその後の問題以外に、読者は外交政策に興味を示さず、関心のある者が自分で調べるという現状であった。ビランド氏は、トルコの読者に外交に興味を抱かせた人物である。

テレビ番組「32日目」で世界への扉を開き、番組内でトルコ人を世界旅行させ、同番組を視聴者が期待を寄せる定番の番組に仕立て上げた。トルコの報道を世界中のジャーナリズムに、そしてトルコ国民にEU連合の価値を紹介する点で大きな役割を果たした。物事がトルコ内部の視点とは違うこと、そしてトルコが外部からどのように見られているかを示した。

■記事の差し止め

メフメト・アリ・ビランド氏の新聞記者としての成功は、このコラムで書ききれるものではない。ビランド氏は我々にジャーナリズムの原点はニュースであると教え てくれた偉大な人物である。報道記者の頭は仕事に行くとき、「今日はどんなスクープを見つけようか」という風に働くべきあると言っていた。ビランド氏の頭はいつもそのように働いていた。数え切れない程のスクープ、単独インタビュー、ドキュメンタリー、初めての企画がこれを物語っている。

初めての企画のうちの一つが1988年にレバノンのベッカー高原でアブドゥッラー・オジャラン氏に対して行なったインタビューである。新聞が刊行されるまで、新聞社の上 層部以外にビランド氏がインタビューを行なっていることを知っている者はいなかった。本紙はスクープのため第一面すべてを空けた。 このインタビューの内容と初めて掲載されることになるオジャラン氏とPKK(クルド労働者党;非合法)キャンプの写真で紙面を飾るはずであった。私がこのニュースを知ったのは、インタビュー記事を掲載した新聞が、晩にアンカラの印刷所で止められたときだった。国家安全保障裁判所は、このインタビュー記事をテロ組織PKKの宣伝活動だと見なし、本紙のその日の新聞を回収させる決定を下した。イスタンブルでは刊行責任者であるドアン・ヘペル氏とビランド氏、アンカラではオルハン・トカトル氏とデリヤ・サザク氏がこの決定を取り下げようと奮闘していた。新聞は印刷され、配布のためトラックに 積まれたところで、裁判所の決定が下されたのである。

■これは検閲である

ビランド氏は裁判所の決定は国による検閲であると批判していた。アンカラにはまだ裁判所の決定が通達されていなかった。ビランド氏はアンカラのオフィス からトラックが出て行くことを望んだ。オルハン・トルカル氏の指示で私はヴェダド・ビュルクルマズ氏と急いで印刷所へ向かった。急いでトラックを出発させ、このことを伝える役目を引き受けていた。ビランド氏はイスタンブルで連絡を待っていた。

トラックは印刷所の前で出発する準備ができていたが、我々と同じく警察もその場に到着していた。若い警察官が丁寧な口調でトラックを止めるように命じた。我々はトルコで報道の自由が憲法で保障されていると言い、トラッ クを出発させる意向を伝えていた。後にこの警察官ナジ・ウウルは我々の同僚ミュエッセル・ユルドゥズの夫であることがわかったが、彼は動き出そうとするトラックを制止した。運転手を車から降ろ している時、我々に「私たちも報道の自由とそれが憲法で保証されているのは承知している。しかし、裁判所の決定を施行させないといけないのだ」と説明していた。我々がトラックを動かせるよう言うと、素早い動作で車に乗り込みエンジンを止めて、鍵を取った。

■報道できずに残念だ

オルハン・トカトル氏とデリヤ・サザク氏の抵抗もむなしく、状況を変えることはできなかった。同じことがイスタンブルの印刷所で起こっていたようだ。警察は新聞を差し押さえ、本紙の新聞は回収された。その時、トラックの後ろに積んであった包みの中から一部を手に取り、第一面に目を通したのを覚えている。

当時は民間放送もインターネットもなかった時代であるから、新聞以外に情報を得る手段がなかった。裁判所の決定はこの唯一の情報取得手段を遮ったのである。

ビランド氏はアンカラを訪れた際、「報道できずに残念だ」とあの晩のことをいつも悔やんでいた。後にオジャラン氏とのインタビューはどの報道機関もおこなうふつうのことになってしまったが、先鞭をつけたのはビランド氏だった。

息を引き取る直前まで記者人生をまっとうしたビランド氏にアッラーのご慈悲を、そして家族や親友たち、トルコの報道関係者にお悔やみ申し上げたい。

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( 翻訳者:松永拓人 )
( 記事ID:28953 )