Mümtaz'er Türköneコラム:クルド語による解決
2013年01月25日付 Zaman 紙

一昨日の晩18時にTRT6(トルコ・ラジオ・テレビ協会、クルド語放送)が放送したクルド語のメヴリト(預言者ムハンマドの誕生とその一生を詠んだ詩)詠唱に私は見入った。シュルナク県のジズレから行われた中継放送は実に魅力的だった。

クルド人のメヴリト詠唱者達の声はハートを揺さぶり、人々を全く異なる世界へと導いてくれていた。画面ではモスクの中の信徒達の自然な姿が映し出されていた。(モスクの中でその声に)耳を傾けていた子ども達や若者、そしてお年寄りといった信徒達の顔からは、非常に多くの預言者への愛がたち上っていた。信心深き彼らの表情、厳粛なる雰囲気と恍惚と畏敬の中で聴くメヴリト、彼らの目の中には安らぎと幸福があった。

祈りが読み上げられている時、電話が鳴った。電話をかけてきたのは私の旧友で、彼は民族主義者行動党(MHP)党員である。彼が「何しているの?」と聞いてきたので、私は「クルド語のメヴリトを聴いているんだ」と返事をした。すると彼は「トルコ語のメヴリトはもっと素晴らしいよ」と言ったのだった。どうもクルド語のメヴリトはトルコ語メヴリトの翻訳ものと思っていたようだ。クルド語メヴリトではない、「さまざまなメヴリト」があるということをほとんどの人は知らない。メヴリトはトルコ人達がクルド人達と一緒に始めた伝統であり、この2つの社会に固有のものなのだ。義兄弟である一人のクルド人と一人のトルコ人、すなわちアイユーブ朝の創始者サラディンと、ムザッフェリュッン・ギョクボリュ(註1)が、この伝統をエルビル(現北イラクのアルビル)で始めたのだ。エルビルで行われる壮麗なメヴリトの祭事は、ファーティマ朝のプロパガンダに対するスンニー世界からの返答という意味をも帯びている。

預言者ムハンマドの生誕を主題とした詩に「メヴリト」という名称が与えられている。数百ものメヴリトが存在する;さらに新しいものも書かれている。ブルサのウル・モスクのミュエッズィンであったスレイマン・チェレビ-(註2)が14世紀に書いた「ヴェシーレットゥン・ネジャート(救済の道)」という題の長編詩が、今日においてトルコ語メヴリトとして、そのメロディーと共にあらゆる機会に読まれている。母語がアラビア語ではないムスリムの人々がイスラームのもつ情熱を感じることが出来るように、それぞれの母語でそれらの感情を表現してくれるテキストが必要であり、それゆえトルコ人とクルド人はこの詩に神聖なる意味を与えている。誕生や死、そして結婚においてメヴリドを詠むという伝統は、トルコ的またはクルド的イスラームの識別のための特性の1つである;すなわちまるで宗教的礼拝の一部のようなものである。特にこの伝統が「預言者への愛」を取り巻いて、これほど力強くなるのは素晴らしいことではないだろうか?そのうえ誰かに何か害をあたえたりするだろうか?

素晴らしい、メヴリトはとても素晴らしく、そして誰かを害することも決して無い。では問題は?実は大きな問題があった。クルド問題をこれほど熱くまた政治とは無関係な観点から眺めたとき、この大地に開いている傷口の深さをより簡単に認識できるだろう。クルド語のメヴリトは最近まで禁止されていた。クルド人達は彼らの母語でメヴリトを詠むことはできないでいた。我々がトルコ語メヴリトに向ける意味と比較しながら、考えていただきたい。母語の問題を越えて、これは信仰と礼拝に対して行われたある種の攻撃ではなかったのか。

国会では、同じ日に「母語で抗弁する権利」を整備する法案を審議する際、激しい議論が巻き起こった。MHPと共和人民党(CHP)は、クルド問題の解決のために取られたステップを「陣地争い」と見なしている。この見解によると、「クルド語に対して共和国が獲得したもの」により形成された体制(現状)というものがある。現在この「獲得品」は次々と手放されている。つまり抵抗することが必要であり、あらゆる「陣地」を、祖国の土地のように守ることが必要なのだ。最後の「陣地」とは、おそらく母語による教育の権利となるだろう。

譲歩と駆け引き、そして「陣地争い」の形で表れているこの理解がトルコに害を与えている。これはトルコにとっては不健全(危険)で、クルド人達にとっては威信を傷つけるようなアプローチである。我々には人道的かつ公正な、そして正義や法に適する尺度があらねばならない。MHPとCHPはクルド問題の解決のための提案を働きかけておらず、現状にたって「陣地争い」を繰り広げ、この国の一体性や統合へ貢献しないでいるのである。

私の提案は次の通りだ。CHP党員やMHP党員達は座ってクルド語メヴリトを聴いてほしい。宗教性は別にして、ただこの国土に固有の暖かさや友好、精神的な感覚を感じられないなら、或いは精神的な喜びを感じられないのなら、かれら流に道をそのまま進んでいけばいいとおもう。


註1 エルビル侯国(ベイリク)の君侯。サラディンの義弟であったといわれる。
註2  14世紀から15世紀にかけて活躍したオスマン帝国の詩人。彼はウラマーでもあり、14世紀末にブルサのウル・モスクのイマームに任命されていた。

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( 翻訳者:濱田裕樹 )
( 記事ID:28995 )