Ergurul Ozkokコラム:「トルコ」といわないとして、国名はどうなる?
2013年01月30日付 Hurriyet 紙

CHP(共和人民党)のビルギュル・アイマン・ギュレル議員に感謝しなくてはならない。

彼女の言い回しに賛同しなかったとしても、(彼女の言葉は)新憲法制定において、何ヶ月も引き延ばされてきた、そして誰も手を付ける勇気をもてなかった、最も重要な項目に関する議論の口火を切ったのだ。

それは、「『トルコ人』の定義」だ…。

2週間前のコラムで「トルコ人(という言葉)の難しさ」言及したとき、あちこちから色々言われ、さんざんな目にあった。
だから、この議論には私は今は加わらないい…。ギュレル議員の言葉には決して賛同しない。
ただいくつか所見を書いて、退散しよう。

1.メディアの風潮を見ると、新憲法では「トルコ人」という単語は使用されないようだ。そうなれば、この国の名前は何になるのだろうか?
2.国家の名前が「トルコ」であり、これも「トルコ人の国家」または「国」という意味を示すとなると…国家の名前は憲法でどのように説明されるのだろう?説明する必要はあるのだろうか…。
3.この議論を最も熱心に報じているラディカル紙の昨日の記事を見た。
共和民主党(CHP)議員に対し使われた言葉は以下の通りだ:
「愚か者」「馬鹿」「人種差別主義者」「ファシスト」…。
(バスクン・オラン先生はこれに含まないこととする。彼は国民、国民性、国の概念を学術的に説明した。侮辱は全くない。それどころか前日には同じ新聞で2人の筆者が使った「ファシスト」という表現を批判していた。)
このようにして重要な問題をエミン・チョラシャンの様に議論できるのだろうか?
4.意見を述べている者に向かって「愚か者」「ファシスト」「人種差別主義者」というレッテルをこれ程までに容易に貼りつける者が、この議論に前向きに貢献することができるだろうか?
この表現を使う者に対し、「賢明」や「民主的」という表現を「愚か者」などと同様に容易に使うことができるだろうか?
(この点における良い議論の形式と方法のためにイスメト・ベルカンの昨日の記事を薦めることができる。そのスタイルは、この議論をより豊かなものにし得るのだ…。)
5.忘れてはいけない事実は、以下のことだ。
「トルコ人」とうい概念は、国民の92パーセントが賛成票を投じた国民投票によって、憲法に加えられたということだ。

***

ファシスト、愚か者、人種差別主義者という単語を、ヒヨコマメを食べるように簡単に使う友に、次の私の見解をはっきりと書いておきたい。
-我々の希望:この国にいる全ての民族グループが平等に、友好的に平和の中で暮らせる、21世紀にふさわしい国をつくること。
-現実:望むと望まざるとにかかわらず、この国は「トルコ人」と「クルド人」という繊細な現実を抱えている。

すべきことは、この繊細な問題を上手く扱っていくことである。
しかし「クルド人」という名称を守るため、「トルコ人」という言葉を口にする誰もかれもをファシスト、愚か者、人種差別主義者と決めつけてしまうと、解決への手助けにはならないのだ…。

***

最初の質問に戻ろう。
国の名前はトルコ…。
そしてその意味は「トルコ人が生きる国」である…。
これをどうしたものか…。

怒らないでもらいたい、すぐにファシスト、愚か者、人種差別主義者と言って襲いかからないでもらいたい。
新憲法について、健全で歩み寄りの可能な基盤の上で話し合うために、これに筋の通った回答がほしいものだ、

***

エルドアン首相は最近の演説で「トルコ共和国国民の上位アイデンティティ」について話している。
これは私にも合理的であるように思える。
もし合理的であるならば、(そのことについて)この土地に住む全ての人を説得するような、道理にかなった方法で議論をすることが必要だろう。

<後略>

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( 翻訳者:釘田遼香 )
( 記事ID:29065 )