Hasan Pulurコラム:トルコ人とウンマ
2013年02月10日付 Milliyet 紙

「国民国家」や「トルコ(Türk)」、「トルコ人であるということ(トルコ人性:Türklük)」という概念は、新憲法の検討の中で議論されているようだが、今後さらに議論されるであろうし、おそらく各党は合意に至ることができないだろう・・・
なぜか?
この概念を議論しているのがどういった人々であるかを見ると、その理由がわかる。
世俗的共和国(体制)に反対する人々がターゲットにしているのは「国民国家」である。なぜなら「国民国家」のシステムにおいて「国民」は存在するが、「ウンマ」は存在しないからだ。
ウンマのシステムとはそのナショナル(世俗的)なアイデンティティが不在の、多文化(マルチカルチュラル)モデルである。オスマン帝国のように。

最近私たちは元大使のシュクリュ・エレキダー氏と会って話していたのだが、国家の最も重要な任務を遂行してきた大使は、私たちから見れば一人の思想家である。
エレキダー氏は「国民国家」と「ウンマ主義」について次のように語った。
「国民国家とは、『トルコ人である(Türklük)という実体』あるいは『トルコ人であるというアイデンティティ』を認めず、そのナショナル(世俗的)なアイデンティティというものが不在の、ウンマのイデオロギーに基づいたオスマン帝国の多文化な社会モデルに代わってつくられたものだ。もともと国民国家という実体は、西洋社会が経験してきた革命、ルネサンス、啓蒙主義時代という過程によってもたらされた蓄積の結果たどり着いた、平等主義・自由民主主義の産物である。オスマン帝国は、西洋社会が経験したこの文化的プロセスを経験せず、ウンマ・イデオロギーの影響で、「アサビーヤ(連帯意識)」つまりナショナル(世俗的)なアイデンティティを、そして「トルコ人である(Türklük)」という意識を完全になくしていた。アタテュルクが建てた国民国家とは、トルコに住む住人(Türk halkı)をそれ以上細かいグループ(サブグループ)に分けることなく、全ての社会の構成員を(共通の)言語、文化、歴史的認識という土台の上に立たせ、トルコ国民(Türk milleti)そして『トルコ人である(Türklük)』という傘のもとに統合させた単一の構造体(政体)である」。

それでは、「トルコ(Türk)」そして「トルコ人であること(トルコ人性:Türklük)」の概念はどうなるのか?
彼らは、できるならば、一丸となって取り除こうとするであろうが、「私はトルコ人(Türk)だ!」と言うひとが何百万人もいる。これは簡単ではない!
エレキダー氏は「トルコ国民(Türk milleti)が存在しえないトルコ(という国:Türkiye)は、ユーゴスラヴィアになってしまう」と言う。

それでは、「トルコ共和国の国民(Türk Cumhuriyeti vatandaşlığı)」あるいは「トルコ国籍(Türkiyeli)」と言う概念をどのように考えているのだろうか?
「トルコ国民(Türk milleti)という言い方を避け、その代わりにこれらの用語を選べば、トルコという国(Türkiye)の国民アイデンティティ(訳注:具体的には国民という点でトルコであるということ)である「トルコ人性Türklük」が否定されたと認識される。わが国の中の様々な条件のなかで、「トルコ国民(Türk milleti)」が「トルコ共和国の国民(Türk Cumhuriyeti vatandaşlığı)」あるいは「トルコ国籍(であるということ:Türkiyelilik)」と言う概念に置き換えられたなら、「トルコと言う国民としての意識(Türk milli şuuru)」の弱体化や我が国家が(国民それぞれの)エスニックな出自に基づいて解体されることにつながり、さらには(この社会は)国民としてのアイデンティティ文化が失われた人間集団の状態に、そしてモザイク状態へと変化してしまうということを認識する必要がある。トルコという国(Türkiye)を単一のトルコ国民(Türk milleti)が存在しない状態にするなら、トルコはユーゴスラヴィアとなり、分裂する」

彼らは揺さぶって、受け入れさせようとしているのである、まるで「国民国家」が終焉をむかえ、博物館入りしたかのように・・・。
いや、エレキダー氏はそうは思っていない。
「今日ヨーロッパや世界の多くの国々では、国家の国民としてのアイデンティティとは、その国家を打ち立てた主導集団(建国においてヘゲモニーを握った集団)のアイデンティティである。例えばフランスに住む人たちのアイデンティティである「フランス人」とは、フランス国家を打ち立てた、そして歴史的建国の過程において40%の多数派で支配的集団となっているフランク人のアイデンティティである。我々(わが国家)の国民としてのアイデンティティも、トルコ国家を打ち立てたトルコ(Türk)という集団に基づいている」。

初めに言ったように、これらの概念はこれから多く議論されることになるだろうが、「国民国家」とは何なのか、「トルコ(Türk)そしてトルコ人であるということ(トルコ人性:Türklük)とは、どうあるべきなのか?」と考える人は、エレキダー氏のこれらの発言を読むと良い。
私たちに言えるのはここまでだ。
関心のある人は探求し、調べるのであり、くだらない言葉に惑わされることはない。

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:29215 )