ビザンツの凱旋門遺構にコンクリート! -イスタンブル大学前
2013年02月22日付 Radikal紙


イスタンブル大学前で、何十の考古学教員、学生の前でビザンツ時代の凱旋門の石柱が砕かれ、コンクリートが流しこまれた。「歴史の殺戮」を鞄商は目撃した。

ビザンツ時代の凱旋門が砕かれ、捨てられた。地中から出てきた煉瓦構造の建築物の上にセメントが流しこまれた。これらは全て、イスタンブル大学文学部校舎の向かいにあった。つまり、何十人もの考古学教員、何百人もの学生の目の前で…。この状況を見ても抗議の声を上げたり、関心を寄せたりはしなかった。

皮鞄商がイスタンブル考古学博物館に連絡し、「歴史的建造物を建機で破壊している」と通報した。通報を受けた博物館勤務の考古学専門家が駆け付け、「工事を中止すべし」と要請、レポートを作成した。イスタンブル第4文化遺産保護委員会に報告が迅速に上がったが、昨日、ファーティフ地区では凱旋門石柱の上に急いでセメントを流し込みはじめた。

■レゴのようにバラバラで発見

ビザンツ時代にはベヤズットハマム、シムケシュハーネ、ベヤズット・キュリエ(複合施設)、ベヤズット広場の場所には、テオドシウス広場があった。1927年のオルドゥ通り拡張の際、D.タルボット・ライス団長率いる英国考古学調査団がシムケシュハーネの中庭で発掘調査を行った。調査時、広場入口の石柱の遺物が発見された。

1956年、この通りが再拡張されることとなり、シムケシュハーネの通り側の壁が壊された。この時、凱旋門石柱の破片が数多く発見された。後の考古学調査で、石柱のパーツが数多く発見、回収された。発見物の一部がイスタンブル考古学博物館に運ばれる一方で、一部は現場に残された。イスタンブル大学文学部校舎前に残された石柱については、処分未決定となっていた。

■マルマラ諸島より持ち込まれた大理石で製作

ビザンツ時代の「凱旋門」は、マルマラ諸島より運ばれた大理石で製作された。三本の通路を備えたアーチ型構造であった。この門は、ローマの凱旋門に似た様 式で製作され、中央の通路が端の通路よりも幅広であった。中央には、テオドシウス1世の彫像があり、両サイドには、彼の息子であるアルカディウス及びホノラリウスの彫像を備えている。中央の通路とその両側の彫像を備えた4本の石柱がある。

今日、アヤ・ソフィアの前を始点とし、西方に伸びる通り(オルドゥ通り)は、過去において都市の主要路線を形成していた。この通りは、テオドシウスの凱旋門を抜け、トラキア方面へ続き、バルカン半島外側まで達していた。これは、十字軍の侵略、数々の地震により大きな被害を受け、(1453年のオスマントルコによる)イスタンブル征服前に廃墟と化したと知られている。

今回の公園整備により、凱旋門石柱の残存部分も破壊された。しかし、歴史的地区でこのような公園整備を行う場合、保護委員会への通達が必要である。掘削を行う際には、同委員会の許可を含め、イスタンブル考古学博物館の考古学専門家が監視の許に実施が出来たはずだ。しかし、ここの所、博物館と保護委員会の許可を得ること なく開始される作業が注目を浴びている。

■ファーティフ区:通知したが回答がない

ファーティフ区によると「博物館に通知したが回答が来ない」 とのことだが、何故回答前に工事に踏み切ったのか理由が明示されていない。

ファーティフ区からの回答:

「現在公園には、治安警察検問所1軒、小屋1軒、ゲジェコンドゥ1軒が存在していた。これらはそもそも違法建造物であり、取り壊しのため保護委員会の許可を取得する必要はない。ただ、公園整備のため同委員会に書面を提出したが、回答を頂けなかった。公園内建築物について、公園整備の間は脇に寄せた。整備後には元の場所に戻すことになる。従ってその場所で発掘を行っていない。公園整備の際、監視のため博物館側に考古学者派遣を打診したが、回答はない」。

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(翻訳者:山根卓朗)
(記事ID:29326)