Ismet Berkan コラム:司法の暴走をどうとめるか―ファズル・サイ判決
2013年04月18日付 Hurriyet 紙

トルコで暮らす我々には、表現の自由について終わりのない試練がある。

ファズル・サイに懲役10か月の判決が言い渡されたことで、表現の自由についての議論が再び始まった。始まりはしたが、残念ながら、生産的ではない出だしである。
そもそも事の本質は、EU加盟プロセスにおいて我々の法律に加わった「緊密で明らかな脅威」という基準である。
ファズル・サイに下された刑法の条項もこの基準を含んでいる。しかし、残念ながら、サイに有罪判決を下した裁判所は、まるで目の前に書かれている刑法の条項にそのような基準がないかのように振る舞うことができた。
問題はこうでもある。宗教や神聖な信条を侮辱することは、ある種の「嫌悪罪」である。そのために、刑法で定義されているのだ。
ここで重要なのは、発言や書かれた文言が(我々のツイッターへのコメントが)「嫌悪罪」であるかどうかを判断することである。

このために、つまり、発言が「嫌悪罪」となるかどうかを決めるために、法的な基準が設定されたのだ。その発言は、社会で暴動に繋がるような「緊密で明らかな脅威」を含んでいるだろうか、いないだろうか?
法律の条項、つまり、トルコ共和国刑法第216条の第3項を以下に引用する。
.「国民の一部が持つ宗教的価値観を侮辱した者は、その行為が公共の平和を脅かすことに加担している場合には、6か月から1年の禁固刑に罰せられる。」
この条項で書かれている「その行為が平和を脅かすことに加担している」という部分が、「緊密で明らかな脅威」を指す。
つまり、ファズル・サイに有罪を言い渡した裁判所は、この部分を審議する必要があった。ここを審議していれば、結論は明らかだった。というのも、ファズル・サイが問題の発言をしてから随分時間が経っているが、公共の平和がこの理由で脅かされた様子はないからだ。
しかし、これにも関わらず、裁判所は10か月の有罪判決を下した。私にしてみれば、ファズル・サイの弁護士も刑の延期を受け入れ、この裁判が高等裁判所まで持ち込まれることを阻止したことで、司法的に大きな間違いを犯した。というのも、イスタンブルの地方裁判所の刑法の条項についての解釈が間違っていることは、私にとっては疑いもないことだからだ。

そもそも、イスタンブルの裁判所は、トルコ国民議会が地方裁判所に定めた一線を明らかに超えている。ある意味では、国民議会に対して、「好きなように法律を作ったらいい、わたしは自分の好きなようにするから」と言っていることになる。

トルコにおいては、この裁判所の態度は特別なものではない。検察や裁判所が法律を過度にイデオロギー的に解釈することで、トルコが欧州人権裁判所の前で困難な状況に陥ることや、国民の表現の自由を始めとする自由の制限に繋がっているということを、我々は知っている。

直近の例は、母語での弁護である。そもそも、このために新たな法律をつくる必要はなかったが、ディヤルバクルの裁判所がKSK裁判において、母語での弁護をいきなり制限したために国全体の重大問題となり、とうとう国民議会が法律を作らざるを得ない状況に陥ったのだ。

ファズル・サイ裁判でも、実は状況は同じだ。国民議会が定めた法的枠の外で、罪ではないことを罰する裁判所と対決しているのだ。そして、残念ながら、法的な方法は使い果たしてしまった。つまり、裁判所の判決を覆す方法はもうないのである。
このような裁判所では、トルコで民主主義を築いていくことは簡単ではない。

■罪を何度も繰り返す者たち

ファズル・サイが有罪判決を受けた原因となった発言が、ここ数日間で、書面や口頭、インターネット上で広く出回っていることに留意する必要がある。
この発言を何度も繰り返す者の中には、自分が宗教的な繊細さを代弁していると主張する者もいる。もし(ファズル・サイの)この発言が宗教に対する侮辱であるのならば、少なくとも、その人たちはこの発言の繰り返しを避けるべきだったのではないだろうか?
この発言は、10か月の服役を要する罪であり、これを繰り返すことは罪ではないのか?
彼らは「裁判所の判決を支持しよう、ファズル・サイの服役は間違っていない」と言いながら、自分たちを同じ状況に陥らせているのではないだろうか?

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( 翻訳者:田辺朋子 )
( 記事ID:29708 )