A. Turan Alkanコラム:「ほおっておけ、行進すればいい」発言にみる不遜
2013年06月03日付 Zaman 紙

土曜日の事件の背後にあるものを説明する重要な発見について述べてみたい。

首相は、科学普及協会の総会で行った演説で次のように述べた。「(共和人民党は)カドゥキョイでミーティングをやるはずだったが中止になった。いま、ベシクタシュで集まることにしたらしい。「ほおっておけ、行進すればいい」といったのだ。ちゃんと制御して、行かせるようにと。そこで、何を話すか見ようじゃないか。彼らの望みはなんなのか。それを聞かせてもらおう。」

鍵になる言葉は、「ほおっておけ、行進すればいい」の部分だ。

この文章の説明は次のとおりだ。もし首相が自ら命令しなかったら,共和人民党はベシクタシュを通ってタクスィムに行けなかった。しかし、首相がそのように望んだので、行けた!

法律が認めた権利を如何なるものも禁止する権利はない。一方、法律がみとめない権利は、行使できない。法治国家とはそういうものだ。しかし、首相は明白に個人的なイニシアチブを行使している。トルコ輸出業者会議や科学普及協会で何度も述べたのでよくわかっているが、トプチュ兵舎を再建は、首相の希望にそった性格のものだ。ゆえに、もし首相がそう望むなら、兵舎問題はまったく話題にもならなかったかもしれない。これは、決して望ましいことではない。

土曜日のイスタンブルでは、記憶に残る事件が起きた。私にわかったことは次のことだ。公正発展党反対者の間に蓄積した反対エネルギーは、―首相が正しく分析したように―、議会の野党の無能さゆえに炎上に向かっている。問題は、もちろん兵舎でも、何本の木でもない。(反対者らは)首相のこの件での個人的な意思(他の言い方をすれば、強情)を、(議会での)正当なやり方では阻止できないため、反応は大きく、驚くべきものとなった。

首相と私の世界観は、100のうち95の点で一致していると思う。私たちの間にイデオロギー的な違いがあるとは思わない。しかし、彼の強情さ、「復讐は冷まして食べる料理」といった仕返しの手法は、彼のイメージを曇らせている。「強情」という言葉は相対的な言葉だ。ある意味では、芯の固さ、熱情ともいえる。一方では、「言ったとおりにしろ」という傲慢さにもなる。不屈と強情との間で論理的なバランスをとるのが「見識」だ。そう考えてきたので、何か月か前にも、「首相の良識に期待する」と書いたことがある。政治的におおむね賛同する人に対し、良識を期待する、というのは、奇妙なことでもあり、残酷なことでもある。

彼の周辺には、「この点で間違っていた、強情をはるのはやめよう、別の方法もある」といえるような人はいないのか?トルコの政治的伝統では、「指導者はいいが、取り巻きがよくないんだ」という言い訳がある。しかし、(政府の)トップグループに属し、事件を正しく分析できる有能な人々がいることを私は知っている。彼らの力が足りないのか、あるいは勇気がないのか。それは重要な問題だ。壊れて、崩れるのを、わからないのか?

通りに溢れた人のなかに、悪意の扇動者がいたことを、私ももちろんわかっている。しかし、「もう、たくさんだ!」という気持ちで来ていて人の方がよっぽど多かった。そして、彼らの気持ちをきちんと理解する必要がある。以前は与党に投票していた人たちにおいてさえ、苛立ちは目立っていた。笑顔で、心やさしく、親しみやすい政治をすることは、それほど難しいことなのだろうか。首相のあの苛立ちは、敵味方をとわず、社会全体に病気をばらまいている。

そして、大事な点:首相は、土曜日、2つの集会で生中継の前で話した。いずれの聴衆も立派な人々だった。しかしサロンからの拍手に熱意は感じられなかった。特別な一日を生きているのだ。人々の頭が混乱していたことは明らかだが、しかし、冷めた雰囲気のなかには、恐らく、ためらいも見受けられた。

我々の首相が、個人的な熱意と決心を(敬意をはらって、彼の強情とはいわないでおこう)、社会の受け取り方をかえさせ、政治的なものいいに笑顔を加え、「悪いが、私は決めたのだ、その通りになる!」といった不遜な態度をすて、人々の考えに関心を示す方向に向かうなら、これだけのことはあったにせよ、状況の修復は可能だ。

反対の事態は、考えたくもなく。

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:30195 )