Cengiz Candar コラム:エルドアンはメッセージをうけとったか?
2013年06月06日付 Radikal 紙

一連の事件の本質は、首相の運営の仕方に対して蓄積された大きな怒りと疑念が噴きでたものだ。

アブドゥッラー・ギュル大統領は、適切に介入した。ビュレント・アルンチ副首相はタイイプ・エルドアン首相が一日目に取るべきであった対応を、模範的に取った。今後行われるべきことは、国全体に広がりをみせたものの、イスタンブルのタクスィムが中心である「抵抗」を「ソフトランディング」して終着させることだ。

一昨日、大統領は「民主主義は投票箱だけではない」、「メッセージを受け取った」と発言して、首相が「当票箱を強調」する以外に何もせず、頑固に「メッセージを受け取らない」態度をとったのと違いを明確にした。

この発言の直後、タイイプ・エルドアン首相が、―実際には何の関与もしていないにもかかわらず―、頑固に、そして起こったことをほかの方向にそらそうかとするかのように、事件の責任者であるとした野党第一党党首ケマル・クルチダルオール氏と面会し(つまり対話相手として)会談した。そして昨日は「タクスィムの抵抗」の象徴的人物の一人である、スッル・スュレイヤ・オンデル議員とも会談した。

昨日、首相代理を務めたビュレント・アルンチ副首相は大統領府を出た後、アブドゥッラー・ギュル大統領から「複数の命令を受けたこと」を明らかにし、記者会見でタクスィム・ゲズィ公園抗議行動は「合法的」であり、警察がこれに乱暴に対処したこと、一連の事件の原因はこれによるものだと認め、謝罪し、反省する必要があることを述べた。これらは「危機」を乗り越えるために希望を与える進展である。

しかしながら注意しよう、これら全てはタイイプ・エルドアン首相が「タクスィム・ゲズィ抗議運動」を「一握りの無法者」と形容し、また(北アフリカ訪問のために)飛行機に搭乗する前には「50パーセントの(AKP支持の)人を、家に押しとどめておくのに苦労している」との脅し文句をはいてトルコを離れた後に起こり得たことだ。

これはなんという矛盾であろうか、国はタイイプ・エルドアン首相がいると緊張し、首相がいない時に安定する。これは、深刻で簡単に乗り越えられない中心的問題である。なぜなら、今ここには、政治体制の問題、政権交代の問題は存在しない。一連の事件の本質は、首相の運営の仕方に対し蓄積された大きな怒りと疑念が噴きでたものなのだ。

この蓄積がこのように噴出することになったのは、平和的デモを行う人々に対する容赦ない催涙ガス弾の使用であった。5月31日から6月1日の間にピークとなり、イスタンブル以外にもトルコ全土を奮起させた動きは、「政治体制変更」や「政権を非合法に転覆させる試み」ではない。

これを求める者、挑発をする者、破壊行為に走る者はいないだろうか?当然いるであろう。しかしこういった者たちは「タクスィムのゲズィ公園抗議行動」とは一切関連がなかったが、6月1日にタクスィムがイスタンブル市民によっていっぱいになり、当局の管理が崩れた後に参加した。催涙ガスを容赦なく使用した当局のやり方は、崩壊と「合法性の喪失」を自らもたらした。

これら全てに関わらず、運動の基本的性質は決して「一握りの無法者」の行動では、説明できない。イスタンブル市民と青年層の運動は、誰が何と言おうと「著しく極端なグループ」により「ハイジャック」されることなどあり得ない特性を帯びている。つまり「メッセージ」を持っている。

正しく読み取ること、正しく対応することが必要である。アブドゥッラー・ギュル大統領とタイイプ・エルドアンの代理を務めたビュレント・アルンチ副首相が昨日表した態度は「危機」を乗り越えるために希望を与えるものである。ただ、エルドアン首相が、大統領及び副首相と協調して行動することができれば良いだけであり、大統領と副首相の努力を無駄にするような出方をさけることができれば良い。

■タイイプ・エルドアン首相はこれを実現できるか?

私はこれを非常に望んでいるが、エルドアン首相の民主主義の理解には問題があり、事件の大きさも完全にこれに影響を受けている。

トルコのような国では、首相の運営の理解と国の内部を揺るがす激震は、当然、国際的にも影響する。事実、ワシントン・ポストの昨日のトップ記事は、一連の動きが米国の利益に影響するところまできたことを指摘し、次の文章で締めくくった。

「エルドアン首相の理解では、トルコの有権者の過半数が自分を支援しているのだから、法律を飛び越え、自分に敵対する者に催涙ガスを使用し、逮捕し、踏みにじりながら、政治を行うことができるらしい。この『多数決』政治の理解は、エジプトで民主的に選出されたエジプト政府にも受け入れられている。
 オバマ政権は反政府デモについて『バランスを欠いた力の使用』との発表を行った。より強く言わねばならない。なぜなら、この危機は、同盟国(であるエジプト)やエルドアン首相自身に対し、民主主義が選挙だけではないことを、そして、これが、選挙で選ばれたとしても独裁者となる可能性があるのだということの不幸な実例であることを示す機会だからだ。」

トルコのメディアにおいても、―なんだかんだといっても―素晴らしい記事が出ている。最も重要なことは、これまでさんざん、多くの案件でエルドアンを支持してきた筆者のなかに、そうした記事を書く人がいることだ。例えば、(ザマン紙の)イフサン・ダウ教授はザマン紙で『エルドアンを愛しているならば彼に本当のことをいおう』という題のコラムを書いた。同紙のシャーヒン・アルパイの以下の文も特筆に値する。

「…真の民主主義とは、選挙で選出された政府の権力が、市民の基本的権利と自由と法治国家によって制限され、掌握した権力を悪用しないために、議会の野党、独立した司法とメディア、市民社会により監視されバランスを保った体制のことである。政権が、選挙で単に選出されるのではなく、(やってきたことの)評価を問う体制である。真の民主主義においては『国の意思』を代表するものは、単に選挙で選ばれた政府だけに限らない。与党に投票した者と同様に投票しなかった者も同じく国の意思の一部分なのだ。

公正発展党(AKP)は国を運営する権利を得たといえるだろう、しかしこの権力の付帯は政府や首相がやりたいことを行うための無記名の小切手を意味することにはならない。首相は、野党、批判する報道機関を沈黙させることはできない・・・。メディアを支持者のパトロンたちに不当に譲渡してはいけない・・・。ソーシャルメディアを「災い」だと思ってはいけない・・・。ウルデレ事件の責任者を「アンカラ(政府)の暗い廊下で」、名前を書くだけに終わらせてはならない・・・。「トルコ式大統領制」の名のもとに権威的な体制を持ち込もうとすることはできない・・・。アレヴィー派のことを考慮することなく、第3ボスフォラス橋にヤヴズ・スルタン・セリムの名をつけることはできない・・・。どのような反政府デモであっても、催涙ガスや過剰な暴力で押さえつけようとしてはならない・・・。(共和人民党の)10万人デモの計画に、「私なら、100万人集めてみせる」と言って脅してはならない・・・。」

私が、近い将来の問題として気にしているのは次の問題だ。

2013年の5月末から6月上旬にかけてのこのイスタンブルをはじめとする、国中の多くの都市で起きたこの事件の後、タイイプ・エルドアンは、大統領に選ばれうるだろうか?選ばれた場合、全ての民族を包括できるような大統領となりえるだろうか。
トルコがタイイプ・エルドアンの尺に応じた「大統領制度」に移行することは、2013年5月・6月の後にも可能となるだろうか。そもそも、そんなことが必要だろうか。

ド・ゴール、トニー・ブレア、マーガレット・サッチャーのような「優秀な歴史的な人物」にとっても有効だった「10年の政権疲れ」は、タイイプ・エルドアンにもおきているのだろうか。11年間タイイプ・エルドアンが首相を務めたトルコは、さらに11年、「権力を増強された大統領」となるタイイプ・エルドアンの「権力の場」になるのだろうか?それも、ここ数日の行動を見たあとで。

ならなければならない謂れはない。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:山口 南 )
( 記事ID:30241 )