問題のゲズィ公園の「木」は今、ここに
2013年06月07日付 Milliyet 紙


ゲズィ公園抗議運動のきっかけとなった木がチャーラヤンのある公園に移植された。その公園の名は園内にあるアービデイ・ヒュッリエット(自由の碑)」から名づけられている。この碑は歴史上「反動者の反乱」として知られ、砲兵兵舎の兵士たちが中心となった「3月31日事件」で亡くなった人を追悼して建てられた。

 ゲズィ公園から始まり10日間続いている騒動の発端となった木が、チャーラヤンのイスタンブル裁判所裏にあるアービデイ・ヒュッリエット公園に移植された。公園の名は園内にある有名なアービデイ・ヒュッリエット碑からつけられている。「文学の自由碑」の別名をもつこの碑は、反動者の反乱として知られ、砲兵兵舎の兵士たちが中心となった「3月31日事件」で亡くなった人を追悼して建てられた。オスマン朝末期の混乱した政治状況をまさに表す出来事である。

 18世紀にオスマン帝国の勢力が弱まるにつれ、国内政治の混乱が増していった。国家にかつての勢いを取り戻させるため、改革に次ぐ改革が実施された。タンズィマートや改革勅令は、国家に近代的なアイデンティティを獲得させるための重要なステップであった。また知識人たちもスルタンによる政治に対し、国民の代表者が参加し憲法が施行される「立憲政」という体制を模索するのである。
 健康上の問題で退位したムラト5世の代わりに即位したアブデュルハミト2世は、1876年12月に立憲政を宣言し、12月23日に憲法を受け入れた。しかしすぐに1878年2月14日には議会を閉鎖し。立憲体制に終止符を打ってしまった。スルタンは1908年まで専制体制の下で国を治めた。しかしヨーロッパで教育をうけた若いオスマン知識人らを通して、現行の政治に反対する組織が増加していった。士官学校と医学校の学生たちの間で当初秘密裏に組織された統一進歩委員会は、広範な支援者をえた反体制勢力を代表するものである。
 委員会の会員の活動の結果1908年7月2日に憲法が宣言され、議会が開設された。この状況に不満を持つ一部の人々の手助けで、タシュクシュラ(ドルマバフチェ宮殿を護衛する兵士の兵舎となっていた)とタクスィムの砲兵兵舎の兵士たちも蜂起した。「3月31日事件」と呼ばれるこの事件は、サロニカから送られ、その中にエンヴェル・パシャやムスタファ・ケマルといった若い将校たちが含まれていた部隊により鎮圧された。
 
統一派の指導者
立憲政第一期に、3月31日事件で亡くなった士官や兵士を偲んで、「アービデイ・ヒュッリエット碑」の建立に着手された。1911年7月23日、つまり第三期議会にエンヴェル・パシャ臨席の下、碑の建立式がなされた。石碑はその後亡くなった統一と進歩委員会の指導者らが葬られるお墓となった。
 砲兵兵舎から始まった反乱を押さえた部隊の司令官マフムット・シェヴケット・パシャと、統一進歩員会のサドラザム・タラート・パシャと、1995年に遺体がトルコに届けられたエンヴェル・パシャの墓はこの碑の周囲にある。
 トルコで最近発生した最大の政治的、社会的緊張関係の中心となった5本のプラタナスの木は、100年前の最も張りつめた政治的社会的環境の中心人物らのお墓を、太陽の強り光から守り日陰を作ってくれている。


(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:岡本悠見 )
( 記事ID:30258 )