アーヤトッラー・ターヘリー=エスファハーニー、死去
2013年06月03日付 Mardomsalari 紙


 初代エスファハーン金曜礼拝導師であったアーヤトッラー・セイエド・ジャラーロッディーン・ターヘリーが、昨日〔=6月2日〕の朝5時にこの世を去った。同師は約1ヵ月間、肺の病気によりエスファハーン病院に入院していた。

 ニュースサイト「ファルヤードギャル」によると、イマーム・ホメイニーの信頼が篤かった同師は、金曜礼拝導師の職をおよそ30年間務めた。同師は1305年〔西暦1926/7年〕、エスファハーン市南部地区にあるホセインアーバードという名の古い街区(この街区はスィーチャーン区およびパーチェナール区と隣接している)で生まれた。

 同師は1325年〔西暦1946/7〕年に人文科学系で高校を卒業し、イラン・フランス協会でも学んだ。アラビア語およびフランス語に精通していた。

 ターヘリー師は革命前のモハンマド・レザー・パフラヴィーの時代、頑強な〔革命の〕闘士の一人であった。同師は初代エスファハーン金曜礼拝導師を務めたが、実際イマーム・ホメイニー閣下の強いこだわりによって、同師は革命前、すでにホセインアーバードにある大モスクで金曜礼拝を執り行っていた。

 同師は金曜礼拝導師だけでなく、エスファハーンの最高指導者代理やエスファハーン選出の憲法制定専門家会議の議員も務め、また最高指導者選出専門家会議の議員も務めた。

 同師は改革主義の潮流を支持する宗教指導者の一人として、国民の間で高い人気を誇った。

 これまで、ターヘリー師からは数冊のアラビア語による著作が出版されている。同師はまた、1378年〔1999年〕に行われた専門家会議選挙で、100万票以上の票を獲得して、同会議のエスファハーン市民代表に選出された。

 国の政治状況に抗議してターヘリー師が1381年〔2002年〕にしたためた公開書簡は、同師の存在がメディアの注目を浴びるきっかけとなった。同師はこの書簡でエスファハーン金曜礼拝導師の職を辞すことを表明し、その翌日、〔ハーメネイー〕最高指導者はこれに対して詳細な返答を行った。その中で最高指導者は国の平静が保たれるよう呼びかけ、同師の辞任を受け入れたのであった。

 しかしその後、同師が政治の領域で目立った存在感を示したのは、10年間でたったの2回にすぎなかった。一つは第10期大統領選挙を目前に控えた時期〔※原文には「第11期」とあったが、10期の誤りと判断。第10期大統領選挙は2009年に行われた前回の大統領選挙〕、もう一つは選挙後の騒擾について彼が議論を提起したときである。

 アーヤトッラー・ターヘリー=エスファハーニーはここ数年、重い病に悩まされていた。

〔‥‥〕



訳注:その後、エスファハーン市内で支持者らによるターヘリー師の葬儀が開かれ、反体制デモに発展したと伝えられている。

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( 翻訳者:8412102 )
( 記事ID:30387 )