トプチュ兵舎とは何か?
2013年06月13日付 Milliyet 紙

タクスィムのトプチュ兵舎は、どういう意味を持つのか?知らない人にとって、この名前はまったく意味をなさない。しかし少しでも歴史を知る人々にとって、この名前、すなわちトプチュ兵舎は、大きな意味を持つ。

偉大な統治者は「トプチュ兵舎」のことを常に考えていたではないか…。ゲズィ公園の木々が切られ、その後その場所にトプチュ兵舎が再建される。その後、ショッピングモールが作られるにしろ作られないにしろ…発言は繰り返されていく。そして断固としてトプチュ兵舎をタクスィムの中心地に再建することを望んでいる。なぜだろうか?なぜこれほどトプチュ兵舎を望むのか…その根源の心理のダイナミズムはなんなのか?なぜこの問題が何度も何度も議題にのぼるのか?

トプチュ兵舎は、セリム2世(註:正しくはアブデュルハミト1世)の時代によい意図をもって建設された。しかしアブデュルハミト2世によって、大きな反動の中心地とされた。実際トプチュ兵舎は、(1325年)3月31日(1909年4月13日)に、そこに暮らしていた教育を受けていないたたき上げの兵卒や将校が、兵舎の外に出て、士官学校出の将校たちを狙い撃ちに、大殺戮を行った場所だ。これは歴史上、3月31日反乱(3月31日事件)と呼ばれる。オスマン史上のもっとも大きな反動的反乱の1つである…。さらに歴史に関する真面目な本を開き、読みなおしてみてほしい。

この反乱を受けて、ムスタファ・ケマルが参謀を勤めた行動軍は、1909年、エディルネからイスタンブルに向かった。そしてアタテュルクはこのトプチュ兵舎を大砲でもって壊滅させ、一掃した。一団の筆頭に挙げられる人物と言えば、そう、イスメト・イノニュである…。問題はわかって頂けただろうか?トプチュ兵舎をなくしたのは誰か?ムスタファ・ケマルとその盟友イスメト・イノニュである…。今再建しようとしているのは誰か?RTE(註:レジェプ・タイイプ・エルドアンの頭文字)である…。

トプチュ兵舎の再建の目的はこれだ。いわばこの反動の中心地を再び盛り上げることなのだ。アタテュルクに対し当時の報復をすることなのだ…。この兵舎の再建が望まれていない本当の目的を、よく理解して頂けただろうか?いかなる下心も隠しとおすことはできないのだ。

おまえは偉大なスルタン・アブデュルハミトのトプチュ兵舎を壊すのか。ああ、壊せばいい!我々は、行動軍とムスタファ・ケマルに反対して、それを建て直すさ…意図はわかって頂けただろうか?

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トプチュ兵舎再建の野望はどこに起因するのかを知るためには、是非ケマル・アル教授による(以下の)文章を読んで頂きたい…。

「トプチュ兵舎とおっしゃったか。散策の場?トルコの春?
(それともあなたの心を悩ますのは、3月31日反動事件を復活することか?)」
イスタンブルのゲズィ公園は歴史的な場所らしい。

そこで何があったのか?そこの歴史をご存知だろうか?

ゲズィ公園の歴史は、反動運動の中心地だ。3月31日の反動反乱において、我々はシャリーアを要求する、と叫んで通りに溢れだしたメドレセの学生や、たたき上げの兵士たちが、「学校出の将校に死を!」と神を讃えながら、近代的教育を受けた将校たちを殺すために襲いかかり、彼らを見つけしだい殴り殺していった場所だ…。

スルタン・アブデュルハミト2世は、つねに大きな疑念を抱き、自身の統治に対し新たな反乱が起こることを恐れていた。

若い将校らは、その1年前にも大きな反乱に向かっていた。スルタンに、1876年(註:正しくは1878年)に停止された憲法の復活を要求していた。

軍は近代教育によって育成されるべきであるという改革運動が行われようとしていた時代だった。

これらの展開について、サイード・ヌルスィーやデルヴィシュ・ヴァフデティのような当時の反動的な言説を持っていた者たちは、学校出の将校に対し民衆やたたき上げの将校を扇動する文章を書いている。彼らは、女性たちがもはやベールを脱ぎはじめ、道徳が破壊され、宗教が失われていることに言及し、スルタンに再びシャリーアの統治を実行するよう呼びかけていた。

このような状況において、アブデュルハミトは、トプチュ兵舎にたたき上げの砲兵将校と砲兵を配置させ、それによって自身の安全を実感しようとした。

しかしその日はやってきた。(1909年)4月13日、恐れていたことが現実となった。トプチュ兵舎を出たたたき上げの将校らは、一部の宗教的な人物や集団も参加し、「シャリーアが失われつつある」と叫び、出会った学校出の将校を殺害し、多くの場所を破壊し始めた。イスタンブルはその後、彼らの手に落ちた。

スルタンは、事態緩和のための方策を何もとらなかった。

最終的に、テッサロニキに本部を持つ行動軍が、イスタンブルに向かって進軍した。イスタンブルで流血を伴う衝突を経て、行動軍は事件を鎮圧した。

この部隊の参謀の1人が、ムスタファ・ケマル・アタテュルクだった。

イスタンブルを制圧した行動軍は、事件の中心地であったトプチュ兵舎に集中砲火を加え、壊滅させた。

歴史の実例を示すものであったトプチュ兵舎は、この砲火の後ついに瓦礫の山と化した。

何年もの間、実に30年間にもわたってそのままの状態で残された。

兵舎の一部はわずかに整備され、様々な目的で使われてきた。

トプチュ兵舎の光景は、1940年代までこの形で残った。1940年代、再開発された地区に、人々が気軽に観光できるよう、緑の公園を作ることが求められた。このようにして、古くはアルメニア人墓地であり、1780年に兵舎が作られたこの場所は、1940年に現代の共和国の遺産として後世に残された。

これで終わりだろうか?否…

多くの歴史的事件を目撃したタクスィム広場は、長きに渡ってトルコにおけるイスラム主義政治家たちのモスクの建設予定地とみなされ、この公園もネジュメッティン・エルバカンを筆頭に多くのイスラム主義政治家の標的となった。

タクスィム広場を破壊し、代わりにモスクを建設するという考えは、長い間国の議題となってきた。現在もそうである。

少し前に、私はテレビで次のようなことを知った。小さな赤ん坊が警察のガスで息ができない状況におかれ、多くの人がガスによって命が脅かされるほど悪い状態におかれ…ハルビエの軍人会館やホテルがガスの影響を受け、市民に門戸を開放してガスマスクをつけたことを、そして私がもっとも憤慨した、2人の女子生徒が顔にガス爆弾の爆発を受けて目を失ったことを知った…。

トルコではメディアは未だ沈黙している一方、デンマークのテレビ局など外国メディアは「トルコの春」と報道していた…それは相応しいものだっただろうか?我々は満足したか?内心も快適だろうか?

神よ、至高のトルコ国家を守りたまえ…
(ケマル・アル、facebook.com/31.03.2013)

さて、この事件をいろいろな史料をみて知れべてみればいい。ほとんどこのように書いてある。ジェプ・タイイプ・エルドアンを擁護する情報がのっているのは、ムラト・バルダクチュが使っている史料だけだ…(それを根拠に、ムラト・バルダクチュは)「これらは事実ではない、嘘だ…」と言っている。

ああ、国内には与党見解を擁護するメディアというものがあり、そのようなものを書く人々もいる…。こういったこともありうるだろう。普通のことである。(しかし)国民は、多くのことをよく理解しているのだ。

[註:ムラト・バルダクチュは、TVや新聞で活躍している歴史評論家。]


(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:30512 )