ギョレ教授:「フィルムは巻き戻されている」―試される公正発展党の宗教理解
2013年06月17日付 Radikal 紙


社会学者のニリュフェル・ギョレは、ゲズィ公園の抗議とその後の展開に関する分析記事を書いた。T24.comというインターネットサイトで、「フィルムは巻き戻されている―試される公正発展党の宗教理解」というタイトルで掲載された記事は次の通りである。

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我々は社会の成員として新しい展開の入り口に立っている。ゲズィは一つのチャンスだったのだ、我々みなのための、心が安らぎ、怒りが静められ、ユーモアがまし、より多元的でより創造的なトルコのためのチャンスだったのだ。

ゲズィへの力による制圧、若者・女性・子ども・医者・弁護士の別なく暴力の対象となったこと、ホテルのロビーまで続いた追走劇、逮捕は、政権が否定の連鎖に陥っていることを示している。トルコの民主主義に悪いイメージを与えている。このイメージを政権自らが与えているのである。聞く耳を持たず抑圧的な政権のイメージを、多数派である事実や投票箱や選挙によって拭い去ることはできない。

政権与党は国家の全権力を掌握しているが、与党ではないかのように振る舞っている。フィルムは巻き戻された。(2012年)エルゲネコン裁判、(2007年)共和国ミーティング、(1997年)「2月28日過程」、(1960年5月27日)軍事クーデタ、(1923年)共和国の建国期にまで、私たちは後退しているのである。

フィルムは巻き戻されている。

宗教的な人々と共和国(主義)のあいだで修復されたと思われていた傷が再び疼いている。世俗派の諸層が傷つき、もろくなり、弱者となっているその時に。(それにもかかわらず、政権側は)宗教的な人々を被害者扱いしようとしている。他者をテロリストと呼ぶことが一般化しつつある。

互いに相容れない二つのトルコが最も接近し、そのあいだで壁がなくなり、世俗と宗教の境界が磨滅しようとしていた時代に、世俗主義とイスラーム主義の対立が再度議論されようとしている。互いに対する疑い、深刻な不信は、我々を急速な分極化、衝突の環境へと引きずり込んでいる。古いトルコを反射するものが、ブーメランのようにもどってきて、我々に直撃している。

このすべての事柄は、正義とは何かを疑わせ、現実主義的な理解を難しくしている。

■公正発展党以前の時代の民主主義の試練

[今起きていることは]間違っているし、公平でもない。共和国の知識人、世俗派、左派、保守派に属する多くの人、すなわち思想家は、「我々-他者」という区別を乗り越えることに貢献した。彼らは、公正発展党が政権に就くずっと以前に、すでに民主主義の試験を受けていた。権威主義的世俗主義とケマリズムへの批判、ナショナリズムと抑圧的国家体制の解体など、民主主義の思想史は豊かな遺産を残してきた。イドリス・キュチュクオメルからジェミル・メリチまでの遺産は、今日のトルコを形成してきたものだ。

ゲズィ運動の周りに結集した抗議者たちは、この伝統と民主的理解が深化したことの表れであり、決して(クーデターを志向する)深層国家をではない。

しかし今日の(首相による)イスラーム化した政治的言説は、フィルムを巻き戻している。

これは、間違っているし、公平でもない。イスラーム主義は今日変化した、自らの特権階級を作り上げた。ムスリム知識人、イスラーム・ブルジョワジー、スカーフを着用した記者、左派のムスリムらは、イスラーム主義の新たな顔を、階級を、特権者を構成したのである。

酒、女、利子、アレヴィーといった問題を通じて、偏狭なスンナ派多数の理解とイスラーム的ライフスタイルが押し付けられようとしている。道徳的な諸テーマは、[公正発展党が発足時に表明した]「保守的民主」ではなく、過去の狭量で保守的で「狂信的な」カテゴリーを、つまり強要するような道徳理解を呼び覚ましている。自ら作り上げた新しいムスリム階級が、新しいライフスタイルをダメにしようとしている。

ゲズィ運動の周辺で集まった抗議者たちは、多元的なライフスタイルに敬意を払い、ムスリム知識人からも支援者が現れた。

その中で数多くの顕著なムスリム知識人たちが発表した「ああ、ムスリムたち」と呼びかける文章は、各項目がマニフェストとしての特徴を有している。彼らは、「貧困者たちの木々を守ろうとした人々は、最も傲慢な対応に直面した・・・。再び敬虔な人々と世俗的な人々の衝突が高じさせられようとしていることを非難する・・・。すべてが、豊かさと権力によって評価されることは、ムスリムの道徳を反映したものではない、かつて抑圧されていたからといって、いま抑圧者の側に立つ必要はない・・・。」と書き、新たなとば口における対等な出会いと、倫理的連帯に対する先駆となった。

そして、もっとも重要なことは「もし我々の礼拝に対して、頭髪を覆うことに対して、礼拝の場に対して、干渉されることを我々が恐れているために、公正の基準から逸脱した為政者たちを、あらゆる条件において正当であると見ようとしがちであるなら、我々はある国家、あるいは政党が我々の宗教を守れないということを知っておくべきである」と述べ、自らの信仰と公正の気持ちを維持する必要があると指摘した。

世俗派対イスラーム派という対立を利用することは、フィルムを巻き戻している。広場の民主主義の代わりに街頭の民主主義、国民の代わりに有権者、保守主義の代わりに狂信主義に活躍の場を与えている。

さて我々が立っている新たなとば口において、公正発展党は、宗教あるいはイスラーム理解の正否を試されている。何より、イスラームの政治化に反対し続け、宗教が分断の道具とされることを望まない敬虔な人々、知識人たちによって試されているのである。


(本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。)

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( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:30530 )