「立つ男」、初めて口を開く
2013年06月23日付 Radikal 紙

「立つ男」、エルデム・ギュンドゥズは、タクスィムに8時間立ち続けて行った抵抗について語った。スカーフに関する抗議活動について話してくれた彼は、抗議活動がスカーフをかぶる人々をからかうために行ったと言われたことに腹を立てている。

彼はゲズィ公園に2-3日いたようだ。「私の考えでは、ここでの出来事はゲズィを越えて、かなり広まった」と話し、「人々は自由意志で道に流れ込み、その木々が切られないために、未来のために抵抗している。しばらくすると警察の暴力に対しても抵抗した。これらすべてを見ずに、3-5本の木の問題だと言うことはできない!」。時々怒りをあらわにするが、総じて落ち着いた性格で、誤解されないように非常にゆっくり話す。多めに見積もっても26-27歳くらいに見えるが、実年齢は34歳だ。私たちは彼を「スタンディング・マン#duranadam」として知ったが、エルデム・ギュンデュズ氏は、もともと長い間パフォーマーをしている。いくつかの組織でダンスを教えており、同時に電気技師だ。本当はアンカラ出身だが、「自分をイズミル出身だと感じる」と言う。もはや彼を皆知っており、抱きついてキスする人や、写真を撮る人は多い。彼はこれらすべてのことに幸せを感じているが、それに多くの意味を見出してはいない。エルデム・ギュンデュズ氏について様々なニュースが出た。彼がスパイであるという主張から、2004年に二人の友人と共にスカーフを大学で被れるようにするための抗議活動を行ったことが明らかになった後、ターバンを被る人たちをからかったことに至るまで・・・。彼は再び沈黙したが、その後、「われわれはターゲットにされている。イェニキョイの攻撃は我々にも及びうる」と言って、話すことを決めた。私たちが会うや、彼はまず最初に自身についての間違いを訂正した。スタンディング抗議の間、İncisözlük(サイト名)で彼の友人であると言っている人物が、「抗議は1ヵ月続くだろう、夕方勤務後に私が3時間交代でスタンディングを引き継ぐ」と書いた。彼は「そのような友人はいない」と言う。ルームメイトだといっているカーンと言う名前の若者が、「スタンディング・マン#duranadam」がなぜ立っているのかを説明したビデオを公表したが、カーンというルームメイトはいないそうだ。彼の名前で開設され、ツイートされている偽のアカウントの件で、彼の反抗心(怒り)はハリル・セザーイの「イスヤン(反抗)」という歌に見られるのと同じである。残りは彼自身から聞くことにしよう。

■スタンディング抗議を始めてから今まであなたは何も話さなかった。その後何があって考えを変えたのか?

抗議を始めた夜、何人かの記者と会った。そこには人々もいて、私が何を、なぜ、行ったのかを説明した。私は再度話さないことを、自分の腹づもりとしている。なぜなら、話すと私が言ったことが曲解され、違った風に理解される可能性があったからだ。しかし、私は考えを変えた。なぜなら、もはやこれらの中傷は我々の命の安全を脅かし始めたからだ。アルペル(一緒にスカーフ運動を行った友人のアルペル・アルポズゲン氏)と一部のメディアで、我々二人の写真は赤い丸に囲まれている。「こいつらがやった」というように。

■脅されているのか?

我々はターゲットにされている。我々についてこうした形で報道し、これらを否定しない人たちを我々は訴える。

■抗議の夜、「メディアに対し怒りを示すために行った」とあなたは言った。どのメディアのことか?

この質問を待っていた。何日もペンギンのドキュメンタリーを見せているメディアで、ベシクタシュを、そこで何もなかったかのように見せた。ブルドーザーが来て、「新しい道を作る」と言って敷石をはがしたが、これは「抗議者が石をはがした」とされた。モスクで性交し、ビール瓶を持って行ったというようなニュースもしかり。ここで私はあなたに根本的な暴力について話す。通りで何もなかったかのように見せるのは一種の暴力である!そこではバリケードが築かれ、100人が負傷しながらも、翌日に道を清掃し、看板と交通標識を直して、何もなかったかのように見せるなら、それは野蛮なことである!ゆえに私はこうしたメディアに怒りを覚える。これだけではなく、私は逮捕されていないが、逮捕されたと書かれた。カーンというルームメイトのビデオが流出したが、それをメディアはニュースにしたが、そのような友人はいない。50個の「スタンディング・マンduranadam」というツイッターのアカウントが開設されたが、私はそのようなアカウントを持っておらず、その名前でアカウントを作るほど私には権力欲はない。そこに書き込む人たちがいろいろなニュースをながし、私について信じられないような作り話を流している。

■あなたをスパイだと主張する人もいた。

そうだ。オーストリア領事館を3回訪ねた、と言っていたようだ。私の履歴書を見れば、私がボスニア・ヘルツェゴビナ、イタリア、セルビア、モンテネグロ、ウィーンとアメリカに芸術のためと教育の目的で行ったことがわかる。私が3回オーストリア領事館に行くのを見たと言うことは、人々を他の方向に向かわせること以外の何物でもない。また私はどうもCIAのスパイらしい。あるいはセルビア演劇の国家的な役者でもあるようだ。もし国家的な役者なら、なぜそこに行くために自分で金を払うのか?「有名人になって金を稼ぎたがっている」と噂しているようだが、一度も現代ダンスでどんな形であれ金はもうかっていない。金があれば私は、「トルコに芸術協会はあるのか」と尋ねることはなかっただろうに。これは私の最後の仕事のうちの一つだ。独立し、個人で活動する芸術家を支援する組織はあるのか?文化省に2007年以降、個人で訴えかけることはできない。このことは、この地での文化に関して、国が何をしたかを問うている。文化省の仕事はただ絨毯やエブル、書道、フォークダンスだけか?もちろんこれらへの支援もしてもらいたいが、仕事はこれだけではない。私が言ったように、「私はあらゆる差別に反対する」という理由がつまりある。現代ダンスに支援はないのだ!もう少し注目すべきだ、私が何を言っていて、何をしているのかを?

■スタンディング抗議をしようと思ったきっかけは?

御存じのとおり、DİSK(トルコ革新労働組合連盟) とKİSKがタクスィム広場に入ろうとしたが、警察が妨害し、来られなかった。そして私はその時イスティクラル通りにいた。人々は怖がり始めた。なぜならとても多くの警官がいたからだ。以下のことを考えた。ドアン通信の、タクスィム広場を望むオフィスがあり、かれらは私を絶対見るだろうと。私は行って、立ち始めた。1時間か2時間後に警察が来た。ドアン通信からも一人来た。立っている間に、私のカバンを3回チェックした。

■その後は?

少し経って警官は(防ガス)マスクをし、盾を持って我々にまっすぐ近づいてきた。私は3歩下がった。その後少し待ったが、そのおかげで私の周りは空いた。しかし警官がまた歩いて近づいてくるので私は抗議を完全にやめた。もしあと少し立ちつづけたなら、ガスをかけられていただろう。

■立っているとき、周りの人たちについてどう思ったか?

例えば13-14歳のある子供が私を笑わせようとしていた。その後もう一人が来て、「おい、この人は抗議活動をしているからそっとしておけ、この人はお前の自由のためにやっているんだぞ」と言った。つまり、分かるやつは分かっているということだ。子供は去ったが、また来てこう言った。「警察は僕に、『その人を動かしてみな』、と言ったよ」と。私は警官を責めないが、警官も賢くあらねばならないわけではなく、その時は誤った判断をした可能性がある。あるいは機動隊員がひっきりなしに私の横を通り過ぎていた、例えばそのうちの一人はかなり近くを通り過ぎた。

■つまり警官は(あなたを)困らせたのか?

そうではあるが、つまり何もなかったかのようにふるまう警官もいた。

■これほどの出来事になると予測できていたか?

私は一人の個人であり、私が去っても他の人が来る。ここで本来話されなければならないことは抗議者たちのことである。子供老人問わず、19-20日も抗議した。15から20歳くらいの、今までのいかなる政府についても知らないような人たちが抗議した。私からすれば、本当の事件は彼らである。

■8時間のあいだ何を考えていたのか?

「ああ、トルコ人の若者よ!」という言葉が浮かんだ。私にとってそこには希望があり、私はその希望を続けさせた。確かに私は活動を終えた。なぜなら誰も傷つくのを望まなかったからだ。命がこれ以上失われたなら、誰かが傷ついたなら、私がそこで活動を続ける意味はなかった。命に価値が与えられない場所に私はいない!強情を張るより、命の方が大切だ。首相は強情を張った。「我々はそこに兵舎を建てる」と言った。もしその強情が4人の人の死の原因なら、このことを問い詰めなければならない。この4人の命の代償を払う必要がある。

■「試合の流れを変えた男」と言う表現をどう思うか?人々は強制的に公園外に追い出され、テントは片づけられた。すべての望みが絶たれたとき、あなたの活動が始まった。

私はありふれた個人である。私が立たなくても、おそらく他の誰かが立っただろう。

■あなたが行ったことは大したことではないとおもっているのか?

そうではないが、私が感心しているのは若者たちだ。私はこの国の若者を最後まで信じる。

■あなたはどれくらい政治的か?

私の態度はとても政治的で、何をしたか、なぜしたかを知っている。初日に私は言った。「政府が辞任するだけでは不十分だ。システム全体を変えなければならない」と。

■具体的に話そう

例えば、住宅開発局(TOKİ)の家または3番目のボスポラス大橋、これらすべては第二次世界大戦で取りやめられたようだ。その住宅開発局の家はとりやめられることになる。なぜなら人間はそこでは生きられないからだ。人間は電池ではない!人々をそこに住まわせ、借金を背負わせ、その後安い労働力として働かせることはできない。もしくはその家の下の階を彼らに与え、借金を払わせるために門番にすることはできない。現在のシステムはいくつかの承認を経ている。我々は一部の事柄を承認している。そしてこれらの承認の後、さらなる承認をし、また別の承認へと・・・。私はこのファシズムに反対だ。ヒトラーは4回も国民投票を行った。「独裁者は国民投票をするのか?」と言う問いへの答えはこれだ。裁判所の判決を経たら、どのようにしたら「我々は再び人々に問う」と言うことができるか?例えば人々への問いとして以下のような例がある。メリフ・ギョクチェキがアンカラに作った地下道・・・ある男の人に尋ねる、「この地下道になぜ来たのか?」、「メリフ・ギョクチェキのためさ」と言う。「じゃあ、地下道であなたは何を言いたいですか?」と尋ねる。すると「平らでまっすぐな道があるのに、地下道を使ったりするだろうか?」と言う。こうして国民投票がおこなわれるのか?誰にとって得となるのか、誰のために行われたのか、少し考える必要がある。公の利益と我々が言うものは人々の権利を守ることだ。

■最後に、これからのための新しい受け身の抵抗運動の計画はあるか?

エトゥヘム(サルスュリュク)とアブドゥッラー(ジョメルト)が撃たれた場所で立ちたいと非常に強く思っている。しかし現在、私自身の安全の観点から問題がありうる。人が死んだということは、政府に認識されておらず、我々は4人の命を失い、この中には警官も含まれる。私からすれば、政府は人間の価値を知らない。

■私たちは宗教の問題に敏感な人間だ。

人々はスカーフのための抵抗運動を演技だと言っている。私は一度も演技などしていない。俳優ではないから。これは初めから失敗している。「あなたはスカーフをしている人を馬鹿にした」と言っている。このようなことは我々の路線にはない、宗教の問題で我々は非常に敏感な人間だ。2004年にスカーフをかぶった人が学校に入れないことに抗議するためにこのような活動を行った。我々は1年生の教室にいて、たった一つの授業時間に活動を行った。最初皆笑っていたが、その後皆見ていたが、我々は全く笑わず、話さず、遊ばず、その間、教師は生徒の宿題をチェックしていた。我々が全く笑わず、話さないでいると、彼らは私たちが何をしたいのかを理解した。授業が終わっても生徒の一部は我々に拍手をした。つまり、馬鹿にしたなどというのは全くの中傷で、その証拠もない。これらの中傷の意図は明らかだ。トルコで民衆やテレビを見る層は昔から今までつけ込まれてきた。そして彼らの最も弱い点でもって私たちに攻撃している。私はアイドルや商品になりたくはない。そのため今まで話さなかったが、このような中傷があったからには、もう十分だと言ったのだ!

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:30545 )