Eyup Can コラム:オジャランはPYDのサーリヒ・ムスリムに何と言ったか
2013年07月26日付 Radikal 紙

少し遅かったとはいえ、確かに有意義であったこれらすべての接触の背後にはオジャランがカンディルに送った手紙が果たした役割がある。

多くの人は12月末にハカン・フィダン国家情報機関(MİT)参事官とアブドゥッラー・オジャランがイムラル島で行った会談によって「解決のプロセス」が始まったと考えている。しかし、実際にプロセスが開始されたきっかけは、2012年9月にオジャランがエルドアン首相に書いた手紙である。なぜならばその手紙でオジャランは、シリアで起きている発展に注目し、首相が解決のプロセスをもう一度始めるように望んでいるのだ。

思い出していただきたい。昨年の夏の終わり、アサドのシリアが北部を民主統一党(PYD)に明け渡すとすぐに混乱が起きた。オジャランはこの砂ぼこりのような混乱の間に、シリアのクルド人を威嚇ではなく、機会を得る窓口として政府の話題に入れ込んだ。

トルコが自力でクルド人問題を解決し、テロや衝突を終わらせられれば、この地域でのトルコ人とクルド人はより重要な役割を担えるはずだった。事実、解決のプロセスはこのビジョンによって実行されたのだ。しかしオジャランを通じてクルディスタン労働者党(PKK)と対話したトルコは、PYDと真に協力関係を築くことはできなかった。よってシリア北部がPYDの統制下に入らないよう労力を費やした。先週この問題に関し、私は3つの記事を書いた。そこで問うた問題はシンプルなものだ:

PKKと対話を行うトルコは、シリアのアサド体制に対し、なぜPYDとともに行動しないのか。この疑問に対する答えは先週アンカラで実施された極めて重要な会議の後で得た。そして一昨日(7月24日)、PYDのサーリヒ・ムスリム共同党首は上層部の複数の会談を行うためにイスタンブルを訪問した。MİT参事官と上層部の役員たちによって、シリアの最新の状況が話し合われた。一方的な自治や独立のような前進は受け入れられないことが、直接に伝えられた。

ではこのような会談のために、なぜこんなに待たされたのか。アフメト・ダウトオール外務大臣はこの2か月、もっと下のレベルで、2回の会談を行っていたことをオメル・シャーヒンに打ち明けた。しかし、この先結成される可能性のある連邦制のシリア国家において、北部がクルド政権に移行することはなんら問題にならないと、アフメト・ダウトオールはきっぱりと語った。しかし全体としては少し遅いにしても、絶対的に前向きな交渉の後でオジャランがカンディルに送った手紙には役割がある。なぜならば、オジャランは最後の手紙でPYD共同党首のムスリムにかなりはっきりと明確に、「一方的で独りよがりの行動はするな」とのメッセージを送っているのだ。またさらに、「もう世論やマスコミの前に一人で出ないように」とも言っている。PYDとしてではなく、地域における全ての民族・宗教グループを一つにまとめて行動することが必要であると伝えたのだ。つまり、ハカン・フィダンより以前に、オジャランはカンディルとPYDに一方的な行動をするなというメッセージを送っていたのだ。なぜならオジャランが首相に書いた手紙も、解決のプロセスの基礎も、あの時の基本的議論によっているからだ。さらに、あらゆる困難にも関わらずこの問題に関しては協力の同意が得られている:トルコがクルド人によって分裂するのではなく、むしろクルド人によって発展していくのだ。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:鈴木直子 )
( 記事ID:30970 )