Oral Calisirコラム:エルゲネコンは「想像の産物」か?
2013年08月10日付 Radikal 紙

私たちは批判を続けていかねばならない。しかしよく考えてみると、エルゲネコンは想像の産物なのだろうか?トルコはごく最近、深刻な衝突を経験しなかっただろうか?

社会的な分裂が、私たちの認識、評価、世界との関係を揺るがす時代の中に私たちはいる。エルゲネコン判決は、結果的に「数百人の被告とその家族に関わる」判決のように見なされるとしても、そうではない。社会の大半の人々は、自分自身を、「この判決によって刑に処された」気分になるほど「被害者側」に感じている。

この心理効果のせいで、問題を自分たちとは違う形でコメントする人は皆、「敵側」に感じられるかもしれない。さらにそれ以上に興味深い進展がある。昨日まで、この判決やこれに似た判決を、「軍国主義および深層国家の清算」として見ていた人々の一部までもが、態度を変えて「不幸な集団」の側に立っている。

私の理解が及ぶ範囲では、こうした人びとは、当初から「イスラム主義者」のレッテルを貼られた政党が「与党となりうること」を受け入れたがらなかった。この層にとって「問題であるとの認識」を生み出すものは、「イスラム主義者」のみではないのは確かだ。「一般大衆は正しい選択をしえない」という根強い信念が、問題の本質的な基盤を構成しているのだ。

民衆が、選挙で選択すればひどい選択をおこなう。なぜなら、彼らは教養がなく、石炭と食糧を支援してやればそれで満足するくらい[選挙の上で]「お恵み」に結びついていたからだ。彼ら自身のように教育を受けていない、無教養な人物を選んできた。もちろん、こうした反応は、公正発展党[の登場]で生じたものではない。1950年に政権を取った民主党から今に至るまで、選挙で選ばれる政党の多くは、こうした人びとの標的となった。彼らによれば、こうした政党のほとんどすべてが「アタテュルクの確立した近代的共和国を排除しようとして」いた。宗教は、使える手段のうちの一つであった。

近代化、自由、民主化といった定義は、いつも「エリート層」の認識によって確立されていた。しかしながら政治の自然な潮流は、どうにも彼らの望んだようには進まなかった。選挙ごとに、新たな「不幸」を生み出していった。予想しない形で終わった選挙の後に、自分自身に「私たちはこの社会を間違って理解してはいないだろうか?」と問うことを必要だとは思ってこなかった。この層が「批判に寛大な」精神をもっていると述べることは、今現在でさえ容易ではない。

「現代トルコ」を、彼らのような考え方を持つ者のみが設立しえた。「にも関わらず」政権を取った全ての政党とその指導者は、国家を後退させた、彼らによれば…。メンデレスに始まり、オザル、エルバカン、そして最後にエルドアンは、「トルコを暗闇へ引きずり込む鎖」のようであった。軍隊はこうしたことを信じ、そう信じさせられたために「政治介入」するのを(クーデター)、やむを得ない職務であると見なした。そうした「職務」を、非常に長期間、ほとんどまったく途切れさせなかったと言えるだろう。

■時代が変わる中…

軍事クーデターの条件は実質上消滅した。しかし、「この国を私たちだけが統治しえるのだ」という考えや主張が、ある層の中では生き続けている。エルゲネコン裁判は、このような理解に基づいた「違法な行為」が、司法の前で責任を問うことを目的としている。10年前、こうした裁判が起きることに言及することでさえ、きっと「夢見人」と思われただろう。

最近発表された判決によって、一部の層の中の「心理的トラウマ」が新たに明確となった。元参謀総長の無期懲役判決が引き起こした反発は、徐々に深まりつつある「全般的な失望」に支えられて、広まっている。この層が最近感じている心理的混乱を、たぶん将来的によりよく分析することができるだろう。

弁護権に加えられた制限を、個人を対象とした圧迫を、復讐的言葉を、違法な手法を、私たちは批判してきた。これを続けていかなければならない。しかしよく考えてみると、エルゲネコンは想像の産物なのだろうか?トルコはごく最近深刻な衝突を経験しなかっただろうか?この国の先頭をきる知識人たちが、国の中のこの、またこれに似た力が設けたもので殺されてこなかったか?明日、彼らの手に[権力行使の]可能性が渡れば、同じことをしようと試みないのだろうか?

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( 翻訳者:佐藤悠香 )
( 記事ID:31139 )