エジプト:同胞団、過去の誤りから反省の必要へ
2013年08月11日付 al-Hayat 紙
ムスリム同胞団はどこへ行くのか?
ムスリム同胞団はどこへ行くのか?

■同胞団、過去の誤りから反省の必要へ

2013年8月11日『ハヤート』

【カイロ:ハーリド・アズブ】

エジプトで起きていることは、イスラム主義潮流の挫折を代表するものだ。そのなかには(ともにイスラム主義組織である)ダウア・サラフィーヤやヌール党のように、ほかと比べればより現実的に対処しようとしているものもあるが。

ムスリム同胞団は国家をあたかも自分の戦利品であるかのように考えてしまった。その代償として、軍、警察、司法、高級官僚を前にした闘いのなかで敗北し、その支持者を衝突という結果にしかならない闘いのなかに追いやったのである。その闘いとは、軍隊を筆頭とする国家とその立役者との闘いであるだけでなく、さまざまな思想的潮流およびエジプトの中間層の大部分との闘いである。

論点に対して論点で、意見に対して意見で対決するなかで、イスラム主義の計画は揺れ、イスラム主義およびイスラム主義者に対する信頼は多くの疑問に囲まれることとなった。権力が目的なのか?それとも神の言葉(コーラン)、正義、真実を高く掲げることか?目的としているのは反対勢力とも力を合わせることなのか、それとも彼らを遠ざけることなのか?

大統領の椅子の喪失を嘆き悲しむこと、いやそれどころかその椅子のために死闘をすることは、つまりイスラム主義の計画は権力の計画だということにしてしまう。しかし同胞団は、最後の議会選で100議席のうちの35議席しかとっておらず、ダウア・サラフィーヤのような同盟者は負けている。彼らは大統領の椅子とそれにともなう国家(組織)の掌握は、エジプトを掌握するための、そして大統領への道をならしてくれた人々を掌握するための最後の機会であることを理解していたのである。

同胞団は大統領の地位を手に入れたその最初の年を、タハリール広場の(反ムルスィー派の)座り込みとは和解しないという演説で開始した。それはムハンマド・ムルスィー前大統領によるもので、そのなかで(ナセルの時代に関する)「60年代の偉業とは」という言い回しが出てきたが、それはあたかもこの時代の恨みを晴らすという考えを彼が根底に持っているかのようだ。同胞団は国家の運営に関わる重要なポストに飢えていたが、それによって同胞団政権は混乱し、動揺し、決断力のないものになってしまった。その結果、彼らはエジプト人の多くの共感をあっという間に失ったのである。彼らは移行期という困難な段階には、全員で責任を担うべく、力を寄せ合ってやっていく必要があることを分かっていなかったのである。そうして、彼らは自分たちを助けてくれるはずの人々の多くを周縁に追いやってしまった。

彼らはトルコの教訓から学ばなかった。エルバカン(元首相)はトルコ軍が彼を解任した時、トルコを激しい紛争に引きずり込みはしなかった。そうではなく、彼は新しい党を作って戻ってきたのだ。エルドゥアン首相はエルバカンがイスラム主義者と他の潮流の分子を一つにまとめる党を作るという変わらぬ考えを持つことを理解した時、国家を自分の計画のなかに埋め込むのではなく、国家を自らの計画の一部にしようと試みた。彼は現実に成果を出し、中間層を味方につけるまでは、軍と衝突しなかった。

同胞団は、エジプトでは軍が中間層の最大の代表者であることを理解していなかった。この階層は、エジプトの経済、社会革命という政策のなかでその基盤が拡大している。彼らは、メディアの要職を担う良い人材を持っていないにもかかわらず、そして過去ではなく現在と語るにふさわしい言説を持っていないにもかかわらず、メディアとの対決を急いだ。その統治の一年にわたって、同胞団の大統領であるムルスィーは、エジプト人に希望を抱かせるような成果を明示する、大きな計画の礎石を置くことはできなかった。その結果、エジプト人は彼に対して希望を失った。同胞団はムルスィーを大統領候補にすることによって、ムルスィーを、そして自分たち自身をも苦しめたのだ。彼は組織運営においては、そしてわかりやすいイスラム主義の話をする上では有能なのかもしれない。しかしながらその人物像は、エジプトの大統領職にはふさわしくない。イスラム主義の潮流がその政策を、その言説を反省することは焦眉の急となった。宗教と政治の違いを截然(せつぜん)としたものにするために。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:八木久美子 )
( 記事ID:31140 )