変わらぬアレヴィー派の村にモスク建設政策
2013年09月15日付 Milliyet 紙


特に1980年クーデタで盛り上がり、現在はかなり減ったとはいえまだ続いているアレヴィー派の村や街区にモスクを建設する政策は、時代遅れの考え方を反映している。

「すべてのアレヴィーの村長のデスクパッドの上にはモスク建設の要請書がある!」
驚くようなこの言葉を、アナトリアのアレヴィー派の人々から聞くことは大いに可能である。なぜなら、この言葉には真実が含まれているからだ。アレヴィー派の人々は、村や街区の不足を取り除くために関係者に申請をする際、多くの場合、申請がモスク建設要求とともになされれば、事が簡単に運ぶと強調されているようだ。この真実は、話題となったモスク・ジェムエヴィ計画への反発の原因を明らかにするものである。アレヴィー派の人々の計画に対する意見とアプローチには相違がみられるが、反発の源は国の、特に1980年クーデタで盛り上がり、現在はかなり減ったとはいえまだ続いているアレヴィー派の村にモスクを建設する政策に関係している。これらすべての政策は時代遅れの考え方を反映している。問題の本質は、ジェムエヴィの地位とテッケ・ザーヴィイェ法の考え方に関する議論にまで及んでいる。

■1923年憲法があれば

服装のカラフルさと快活さでいまだに輝きを保ち、「フブヤル・スルタン」の系譜を受け継ぐ、デデのムスタファ・テメル氏は1923年憲法の適用を求めている:
「国はアッラーと民との間から手を引かなければならない。国は、1923年憲法を適用し、信条に干渉せず、抑圧をせず、宗務庁がファトワーを出さなければ 我々の問題はありえない。1923年憲法は誰も信教や哲学的考えのために非難されない。望めば好きなように祈ることができると言っていた。」

■テッケ・ザーヴィイェ法

フブヤル・スルタン・アレヴィー文化協会のアリ・ケナンオール会長もテッケ・ザーヴィイェ法が今日の根本的な問題となっているとしている:
「この法はアレヴィー派の信教システムに多くの害を与えた。テッケや修道場を閉鎖し、デデの制度を禁止したことで、アレヴィー派の組織はマフムト2世の時代に重大な打撃を受け、めちゃめちゃになった。この法でアレヴィー派の信教システムは周辺的なものと示され、創られた「輝かしい」共和国の時代にアレヴィー派は遅れた、排外的なものだとされた。こんにちの諸問題の根源には、この法の抑圧的思考がある。この法は完全に撤廃し、オジャクに干渉しないことが必要だ。」

■抵抗する伝統

現在、廟と参拝は生き生きとした形で存続している。なぜなら禁止されたとしても、信者を止めることは不可能だからだ。スィヴァス・エルズィンジャン道の間で特に辺鄙な場所にあるにもかかわらず、活動的な場所の一つがヤルンジャク・スルタンだ。デデであるマフムト・ヤルンジャクオール氏はまだ伝統を守り続けようと努めていることを強調している:
「昔は、『訪れた人に食べ物、水、パン、食事を与えることは、客としてもてなすということではなく、手に杖を与えるということである』と言っていた。つまりここで伝統を保つということは、二つの祈りやサズによってだけでは無理なのだ。来た客人に望む情報を伝えることが非常に重要だ。」

■ジェムエヴィは街が必要とした

アレヴィーの村にはジェムエヴィがない。なぜなら最も大きい家、もしくは一般的にデデの家がジェムをするために使われるからだ。ジェムエヴィの必要性は移住や都市化で出現した。イズミル・タフタジュラル出身のメリフ・ユンサル氏は、ジェムエヴィが都市化によって必要になったと強調する一方、都市化が信教により害を与えたことに言及している:
「私たちはオスマン朝の抑圧によって山や森に移り住み、信仰や文化も運んで行った。移民の社会は同化するのが難しい。定住生活の後、ジェムエヴィが必要になる。都市化によって多くの伝統、慣習が無くなり始めた。昔、我々の願懸けや祈りを、それぞれの家の中庭でやっていた。しかし地代の問題が生じ、我々の家は取り壊された。道だけが残った。我々は信仰と文化の存続のために信念を持って努力している。」

■アレヴィーの家々に「しるし」

マラトゥヤ・ジェム財団のエシュレフ・ドアン理事長は、テッケ・ザーヴィイェ法がなぜ有効にはならないかを強調する:
「デデと信者の関係において、ある時期にはなんの変化もなかった。昔はデデが誰かの家に泊まったなら、そしてジェムが誰かの家で行われたなら、そこはその日のジェムエヴィだった。このためジェムエヴィは改革法の範疇には含まれない。なぜなら、もしそうならば、トルコにはどれほどのアレヴィーの家があっても、改革法に反するとしてその全てに「しるし」をつけることが必要となるからだ。」

■ハックッラーフとは何か?

デデ・ガルクン・オジャウ出身のヒュセイン・デデカルグンオール氏も、現代化がアレヴィーらしさに与えた害に言及する一方、「ハックッラーフ」が何であるかを明かした:
「アレヴィーの若者も両親もどのオジャク(アレヴィー内の共同体)出身で、誰の信者であったかを知らない。都市で現代の名のもと、デデのオジャクをジェムエヴィが、オジャクのデデのものをもジェムエヴィのデデが取った。ジェムエヴィのデデはありえない。ジェムエヴィの職員や、使用人というならありうる。ハックッラーフもデデへの給料だと考えられている。ハックッラーフは名前からして、アッラーの真実だ。72の民族を一つの目で見る代わりに、自身に近いものを見て、デデをモスクのホジャと同じものとみなすことは、デデという制度を大いに損なわせている。」

■修道場からモスクへ

チョルムのアレヴィーの村でのモスク建設がいまだに続いていることを強調するデデ、アドゥギュゼル・エルバシュ氏は、修道場がどのようにアレヴィー派の手から失われていったかも指摘する:
「1925年にテッケとザーヴィイェの閉鎖に伴いアレヴィー派の教育機関のうち、ハジュベクタシュとこれに属するシャフクル・アブダル、ムサ・スルタン、カラジャ・スルタンもしくは今日AKP県支部の建物が代わりに建てられたスュトゥリュジェにあるカラアーチの修道場が閉鎖され、アレヴィー派の細々と続いていた脈が途絶えた。1950年に民主党が政権につくと共に宗教科目を必修にし、1980年クーデタで、礼拝の実施と、アレヴィー派の村へのモスクの建設が始まり、それが現在も続いている。例えば、チョルムの中心部にあるトゥルグト村のジェムエヴィの50メートル向かいに2009年ごろにモスクが建てられた。村にサービスが行き届いていないことから、村民モスクの建設を望まざるをえなかった。村長は、国からサービスを受けるならモスクを望まなければならない。このサービスとは国の役人が押し付けているものだ。チョルムまで20キロの、アレヴィー派が住むチャヤタプ村にはモスクがある。イマームだけがモスクに礼拝に行っている。最近までチョルム、アマスヤ、トカトにあるアレヴィー派の村でアザーンが読まれ、金曜礼拝が行われていた。我々は見て知ったとおりのアレヴィーらしい生き方をしたい。国の自由にアレヴィーらしさを定義してほしくない。不快になる。」

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:31449 )