Ismet Berkanコラム:神学部学生に必要な哲学は皆にも必要な知識ではないのか
2013年09月22日付 Hurriyet 紙

数週間前、高等教育委員会の総会がある決定をして、神学部で必修科目として教えられている西洋哲学に関する一部の科目を選択科目に変更した。

ある主張によれば、一部の高等教育委員会のメンバーは、「哲学を学ぶと頭が混乱し、モダニストになる」というような理由から行動したようで、このことを未来の神学者が知識に触れないようにおこなった。この方法は過去においてもスレイマン大帝の有名なシェイヒュルイスラムであったエブスウト・エフェンディも用いてお り、出された有名なファトワ(意見)で、マドラサからイスラム系の学問以外の学問を除外した。オスマン帝国を崩壊に導いた要素の一つとしてこのファトワを例に出す者もいる。

高等教育委員会の決定に関して小さな議論が始まり、議論のある時点では宗務庁も参加し、哲学教育の利点について話し合った。その後、高等教育委員会がこの決定を取り消し、神学部は元に戻された。

この問題に大いに関係する学者であるタリプ・キュチュクジャン教授の情報によると、1980年に神学部におけるイスラム科目と社会科目の比率は59%対 41%だった。2009年にはこの比率は69%対31%と、イスラム科目の比率が上がった。高等教育委員会の決定が適用されていれば、この比率は79%対 21%になっていたという。

疑いなく、学問的訓練を受け、学問の方法論を知っていて、宗教に対して社会科学の目で見ることができる神学者が我々には必要だ。その点から、高等教育委員会が過ちに固執しないことは正しい。

しかし我々の哲学に関する困難は、神学部のみにあるのではない。神学における困難は、残りのものと比べればとても小さく、部分的な困難だ。

西洋哲学と自然科学、そして学問的な考えと学問的な方法論はお互いに切っても切れないレベルで、互いに入り組んだものだ。

哲学は真空上にだけ存在することができ、一部の深い考えを持つ人びとの間のおしゃべりではない。哲学は直接、人生そして基礎学問そのものと関係するものだ。トルコでは残念ながら今まで中学高校では哲学教育は皆無に近いレベルだ。70年代から哲学の授業に対して行われた秘密の戦いを始めた者たちの動機は、高等教育委員会の総会で主張された理由と違うものではなかった。生徒たちは、哲学を学んで「モダニスト」、「実証哲学者」、「物質主義者」になってしまうことを恐れており、この恐怖も秘密にはされていなかった。トルコ人はこの恐怖への対抗措置として、学問を制限することを選んだ。禁止、タブーな学問分野を作り、ここで反哲学と反知性と言うことができる分野に逃避してしまった。残念ながら、やがて西洋哲学を全く知らない、知っていても誤解している人からなる何十もの世代をこの国では育ててしまい、育て続けている。哲学がなぜ出現したのかを、また何を説明しようとしているのかを知らない世代と、私たちは、自然科学をおこない、社会科学、日々の政治さえすることができない。

「モダニズム」、「実証哲学」、「物質主義」という概念を、我々の一部は、もしくは多くは、何であるのかさえ知らずに罵りの意味で使っている。トルコが西欧でこの用語をなぜ罵りの意味で使っているのかを説明することは不可能ではないとしても、かなり説明を必要とする行いだ。さらにおかしいのは、「モダニズ ム」を、そしてその含意するところを根本から知らない世代の一部が、基本的にモダニズムの批判として読まれうる「ポスト・モダニズム」をかなり良く知っていることだ。

つまり、「モダン」になることなく「ポスト・モダン」となり、モダニズムをポスト・モダニズムが行った批判によって知った国なのだ。

我々が行った多くの議論が西欧に完全に翻訳されえないことが、西欧によって毎回間違って、またはちゃんと理解されないことの背後にある根本的な原因であると思う。

全く学問をやれず、基礎学問を小さいも小さい少数派の努力として見ていることの背後にある理由は、西欧哲学を知らないことだ。

2013年にいながら我々はいまだに、「宇宙と世界を、つまり自然を自らの頭で説明することができるのか、できないのか」という問いに、「いや、できないし、してはならない」という返答をしているために、哲学を恐れているのだ。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:31502 )