兵士の証言で村を焼き払う部隊の存在判明
2013年11月10日付 Radikal 紙


犯人不明の事件に関して、ディヤルバクル共和国検事に匿名の証言者として証言したある兵士は、「1994年にハズロ、リジェ、ハニ、クルプの各郡における30の村を焼いた」と話した。

犯人不明の事件の捜査を行っているディヤルバクル共和国検事のオスマン・ジョシュクンに証言した兵士は、1990年代に地域の村を焼く任務を請け負っていた大隊に所属していたと話した。

タラフ紙のバハル・クルチゲルディキの情報によると、命の安全のために匿名を希望し、1994年にディヤルバクルのハズロ郡に臨時任務に来ていたと証言した兵士は、村をどのように焼いたかを以下のように説明した。

「我々の大隊に与えられた任務は村を焼くことだった。そこに滞在した期間の中で、ハズロ、リジェ、ハニ、クルプの各郡にあるおよそ30の村を焼いた。村に入ると隊長が兵士を二人ずつか三人ずつに分けて家を焼かせていた。家に入って『外に出ろ、焼く』と言っていた。」

1994年と以降数年、ディヤルバクルのハズロ郡で任務を行った兵士は、問題の期間に地域で行われた犯人不明の殺人事件を捜査しているディヤルバクル共和国検事オスマン・ジョシュクンに証人として証言した。証言では、「私が説明する出来事に関して、私自身や私の家族の生命に関する心配があることから、身元が明かされないよう希望する」と言って始めた兵士は、その後以下のように続けた。

■我々の任務は家を焼くこと

「私は兵役をイスタンブル第66装甲旅団要塞の第1機械歩兵大隊で行った。1994年の2月に第1大隊から志願者が選ばれ、ディヤルバクル県ハズロ郡で臨時任務に就いた。大隊の隊長は参謀中佐のイスマイル・E、副隊長は苗字が思い出せないが、アリという名の少佐だった。3つの中隊と本部の中隊からなる合計4つの中隊が来ていた。およそ400人から500人の兵士がおり、数は時折増減することがあった。この地域に2カ月から2か月半滞在した。 我々の大隊に与えられた任務は村を焼くことだった。そこに滞在した期間の中で、ガズロ、リジェ、ハニ、クルプの各郡にあるおよそ30の村を焼いた。村に入ると隊長が兵士を二人ずつか三人ずつに分けて家を焼かせていた。家に入って『外に出ろ、焼く』と言っていた。家財を運び出す時間は与えていなかった。

■村人が外に出ると

村人が外に出ると最も簡単に焼くことができるところから焼き始めた。家畜小屋も焼いたが、中に家畜がいるかいないかはチェックしなかった。時間がなかったので、すぐに焼いて出てきた。ある村に入ってから30分後には焼き終えて他の村に行っていた。私はどの家も焼かなかった。そのためアリ少佐が私に、『志願して来たのに焼いていないということは、お前はPKK(クルド労働者党:非合法)のメンバーで、スパイをするために志願したのだな』と言った。しかし私はPKKと闘うために志願した。」

■デニズ・バイカルと共和人民党(CHP)はリジェに入れられなかった

リジェの虐殺(1993年10月22日)が起こった日にディヤルバクルで党の第7回大会に参加していたCHPのデニズ・バイカル党首は、ウルチ・ギュルカン議員、エルトゥールル・ギュナイ事務局長、ムスタファ・ドアン議員、ヴェリ・アルソイ議員、その他5人の議員と共に事件の翌日リジェに向かった。一行の行く手は、郡まで30キロのところで閉ざされた。軍関係者は一行が決して郡に入れないと話したが、CHP党員はここで引き下がらなかった。押し問答を受け、バイカル党首は電話でネジメッティン・ジェヴィヘリ国務大臣と話した。この会話の後、運転手のところに行ったエシュレフ・エルデム副事務局長は、一行が乗っていた車をリジェに向かって再び出発させた。リジェまで7キロのところで特別部隊に止められた一行は、郡への立ち入り禁止の決定がなされたことから、引き返した。

■村人の服を着せた

犯人不明の事件の捜査を行っている検事に証言し、身の安全のために匿名を希望した兵士は、リジェの虐殺の後、クルド語を理解する兵士に村の服を着せ、これらの兵士が外国メディアに、「リジェはPKKが焼いた」と言ったことを、以下のように説明した。

「ハズロに行ってから一週間後、我々はリジェに行った。我々が行ったとき、リジェのあたりに4-5か月とどまった。私は郡で誰も見なかった。空にされていた。隊長が、「不遜なやつらに地震用の仮設住宅を見せ、そこに居座れと言ったが、一人も来なかった」と言ったのを聞いた。その日バスにいっぱいの外国メディア関係者が来ていた。リジェの入口に近いところで待たされていた。彼らはリジェに入れられないでいた。我々の大隊でクルド語がわかる5-6人の兵士に村人の服を着せ、側に村落防衛隊から10-15人を付け、3-4人の女性を連れてきた。その人たちをどこから連れてきたのかわからないが、その人たちを外国メディアの前に出した。私は道路の安全[確保]のための任務に就いていたので、メディア関係者と行われたやり取りは見聞きしなかった。後になって友人から聞いたことによると、クルド語がわかる同僚が自身をリジェの住人だと言って、メディア関係者にPKKが来てリジェを襲い、焼いたということを、隊長の命令で説明したと言っていた。この事件に関しては多くの目撃者がいる。数人の友人に証言することを持ちかけたが、これがPKKへの協力になると言って断った。」

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:31937 )