Ismet Berkan コラム:私塾論争でなく、教育論争を・・・
2013年11月16日付 Hurriyet 紙

国民教育省内部監査局の監査官の一人であるハサン・ウンサル氏は、2010年に私塾に関する総合的な報告書を執筆している。

この報告書の一部で、ウンサル氏は「入試制度を設ける国では、どこにおいても私塾制度が当然として存在する」と述べている。
私塾の閉鎖とそれらの私立学校への転換促進という考えは、決して新しいものではない。例えば、2007年から2013年にかけて行われた第9開発計画では、私塾の私立学校への転換のためにそれを奨励する制度の必要性が指摘されている。また他にも、国民教育省の2010年から2014年までの戦略的計画においても、これらの転換奨励の議題が取り上げられている。
そう、昨日のコラムでも注目したが、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相も数年にわたってこの件について発言しており、さらには公の会議の場においても政治的公約として述べているのだ。それ故に、国民教育省が法案の骨子(おそらく複数の骨子)を準備していることが明らかとなったことは、誰にとっても驚くべきことではなかったのだ。
昨日、私はこの件について私塾は理由ではなく結果であると書こうと努めた。この中には、病的で且つ継続的に病気を生み出す構造があるのだ。そう、みなさんはこの構造が生み出す何十もの症状の内、一つに狙いを定めているのだ。
病気そのものを狙いとすると、おそらくこれらの症状それ自体がなくなるのがわかるだろう。昨日(15日)アブドゥッラー・ギュル大統領も述べていたが、病気それ自体は教育制度における根深い不平等が生み出す構造なのだ。
あくまで私の考えだが、私は、私塾は教育に対しいかなる貢献もしていないと考えている。そう、一部の人間を大学に合格させることや、一部の人間を「名高い」と言われる高校に入学させることを、私は国の教育に対する貢献としては考えない。これらはせいぜい、その個人らに行われた貢献である。
しかし、私塾閉鎖が解決策であるとも考えていない。むしろその反対に、私塾は一種の恥ずべき手段としてそこにとどめ、教育制度の本質的な問題に焦点を当てようと思う。
もし今日、私塾に関する議題において熱烈な支持を得て進められ、事実、政府に反対する人々をデモ抗議へと発展させたこの論争を、教育制度の完成のために行うことができたならばどれだけよかっただろうか。もし、教育の不平等を生み出す構造に対する解決策を探しだすことができたならば。もし韓国が、現行で多くの人々から「世界最高」と評される制度を変えるためにどのようなことを行っているのか見ることができれば。もし、フィンランドやポーランドの解決策をこの場で話し合い、それらの解決策の中かられわれに適する新しい方法を見つけることができたならば。
病気の基本的な原因に傾倒すべきではない。もちろん症状の一つにでもない。

■私塾の数も学生の数もここ10年で2倍に増えた

私は、一つの政党が国を10年間統治することに慣れていない世代の人間だ。
公正発展党は2002年末に与党となり、まだまだ与党の座にとどまるだろうと思われる。
そう、これだけの年数与党の座にとどまれば、国の慢性的な問題が、みなさんはこれらの問題を生み出してさえないのだが、みなさんが解決できない問題として記録される。できることは何もない。
先週私は、教育問題が公正発展党の最も大きな失敗だと書いた。なぜなら、教育制度の成果において、この10年間で注目に値する変化はなかったからだ。
しかし今試みられている私塾問題においては、状況が異なる。
国民教育省の算出したデータによると、2002年末には1700箇所程度であった私塾の数は、2010年以降4500箇所にまで増えている状況だ。同時期に私塾で働く教員の数も、2万人から5万人にまで増加している。しかし主要で劇的な増加といえば、学生の数である。2002年末では60万人以下の学生が私塾に通っていたが、2010年には120万人の学生が私塾に通う方法をとっている。
これらの数字は、われわれに多くの事を物語っている。

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( 翻訳者:指宿美穂 )
( 記事ID:31994 )