Kolay Caliskanコラム:ギュレン運動vs.AKP対立の今後
2013年12月03日付 Radikal 紙

新聞記者やコラムニスト(財団関係者ではない、すべて)は、大きく三つの意見に立場が分けられる。私に一番近い意見は、いわゆる「静まれチャンピオンよ」と呼ばれる2番目に分類されるグループだ。簡潔に見てみよう。

一、怒りを含んだ意見:対立は国の主導権争いと述べるもので、対ゲリラ組織から省庁の役人まで、国家諜報機構から競争入札に至るまで、そもそも問題 [の原因]が、国の公然あるいは秘密組織の支配権をめぐるものである、としている。この論者の心の底には、新しい組織秩序の名称が「ジェマート政府※」か「エルドアン政府」か、そのどちらになるのかという解釈がある。

※訳注:ジェマート(宗教団体)=ギュレン教団を指す

二、静観する意見:国や社会が「手に負えない」程に混迷した世界になったと見なすこのグループは、この問題を勢力圏の強化と見ている。この点で言うと、AKPの“奉仕”※への対応は、世俗派を代表する個人やグループへの対応と似た、主導権争いの戦略のひとつとして捉えられている。

※訳注:“奉仕”=ギュレン教団の活動名。“奉仕”活動の一環としてデルスハーネが運営される。

三、恥ずかしいとする意見:“奉仕”が直接の問題であることを否定するこの意見は、今回の問題を教育や国の安全保障政策の問題の一環としてとらえることを目指している。デルスハーネ改革[の実施]は、基本的な教育システムの中に独立した教育システム(=私塾、デルスハーネ)が設けられているためではなく、学生がテスト漬けで憔悴するのを防ぐことに本質がある、と説明している。

この分析は他方で、問題はあくまで教育政策問題であるとし、しかしデルスハーネが閉鎖されれば問題の解決は不可能になると付けくわえている。つまり、もともと公正発展党(AKP)や“奉仕”が常々欲していたこの分析は、問題が「政治的コミュニケーション」のために必要、つまり「マーケティング」目的であった。

■問題の行く末はどうなる?

“奉仕”は現在、世界でもトルコでも最大級の宗教的/社会的な相互扶助ネットワークである。政治的であるか否かは訊ねる必要が無い。もしあなた方に将来の夢があり、これに向けて動いており、これを定義するならあなた方は政治的な行動を取っているということになるのだ。これは世界に対しても、トルコに対しても言えることである。

AKPは世界の政治に対し殻を閉じてしまった。孤立の道を歩み始めている。先日万博会議で起こったことを振り返ってほしい。私たちへの興味は低下した。これが重要なポイントなのだ。一方“奉仕”は広がり、理解を獲得している。共和人民党(CHP)もまたイラク、エジプト、アメリカを訪問し国際舞台で立場を固めている。

トルコに話を移そう。“奉仕”活動に基づいたデルスハーネ運営は、絡まるツタの根っこのようなものである。AKPは自らの[手足となる]官僚集団を設けようとする時いつも、「その人物の背景」ではなく「メリット」を基準に人を揃える。しかし世俗主義の背景をもとに集まった人物と、“奉仕”を背景に集まった人物同士のつながりの方がより強固なものであるとわかる。それゆえ、世俗主義と“奉仕”の両方を同時に疲弊させる国家的宗教教育システムを設立しようとしているのだ。

エルドアンの将来のビジョンの中心には、これが横たわっている。“奉仕”と世俗トルコが同時にこれほどまでに無慈悲に攻撃される理由は、将来の夢が目の前にはっきりと描かれているからである。国を手中に納めるはもとより、エルドアンの心の中にあるイスラム・トルコという夢の前では、 世俗主義者や“奉仕”は似通った障害と映っている。ああ、なんたる皮肉。しかし人生は、特に政治に関してはこんなものであろう。

では今後どうなる?短期的には、“奉仕”や世俗主義といった恐怖を抱いて自身を歯向かってくる政治的アクターに対し立場を狭めていくであろう。そうなったあとで、共存できる条件は何だ、とあらゆる立場の常識人が再考を始める。果たして私たちはどうやって共に生きていくのであろうか。問題はここに帰結する。

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( 翻訳者:池永大駿 )
( 記事ID:32160 )