Eyup Can コラム:政府は誰の手に落ちたのか?
2013年12月21日付 Radikal 紙

大火事だ。この火事を消さずに上からガソリンをかければ(双方でガソリンをかける者たちがいるのだが)、関係のある者もない者も皆、焼かれるだろう!

私は誰と出会っても同じことを尋ねる:
「この喧嘩の結末はどうなるだろう?」
トルコ人でも、外国人でも、実業家でも、芸術家でも関係ない。
皆、気がかりにしていて、皆、緊張している…
イスマイル・キュチュッカヤ氏は、一昨日(19日)解任されたヒュセイン・チャプクン・イスタンブル県警察署長と話していた。
チャプクン氏は、「大火事だ、何の関係もなかったのに我々も焼かれた」と話していた。
事の顛末を最もよくまとめる言葉は:
大火事だ。この火事を消さずに上からガソリンをかければ(双方でガソリンをかける者たちがいるのだが)、関係のある者もない者も皆、焼かれるだろう!
***
それではこの火事はどのようにして消し止められるのだろうか?
「この喧嘩はどのようにして終わるのだろうか」と言っていないことに注意してください。
なぜならば政府と(ギュレン)教団の間にある根深い喧嘩を終える段階はすでに過ぎたのだから。
今我々が話さなければならないのは…
この喧嘩の後に発生した大火事をどうやって終わらせるのだろうか?だ。
そうしたい者は、この火事が国中を焼く中、喧嘩を続けたらいい。
喧嘩を続ける人たちに言う言葉はない。
しかし残りの者たちは皆、手にバケツを持ち火に水をかけなければならない。
***
私は初日にも書いた。
我々はマトリョーシカと向かい合っているのだと。
人形を開けると、中から新しい人形がでてくるように。
しかし結果として、根本的な責任は政府にあるのだ。
なぜならば開かれた最初の書類から出てきた主張が危険なものであるから…
そこにはブラックマネーから賄賂、収賄にいたるまで、非常に重大な疑惑もある。
政府は、この疑惑を封じて見せるのではなく、政治的・法的な観点から必要なことをしなければならない。
しかし残念ながら現在に至るまでそのような様子は見られないのだ。
教団、あるいは教団の名で活動していると言っている人々のところへ行こう…
司法に対して大臣であることで特別待遇をしないように、と言うのならば、政党やイデオロギー、あるいは教団に属していることでも特別待遇をしてはならない。
誰であったとしても、あれやこれやの名目で責任を果たす代わりに、違法な政治工作を行っていることが露見すれば、罪を償わなければならない。
違法な道にそれてしまったならば…
法の中で清算されるかたちで…
***
このほかに、政治教団の名の下にどのような個人が死刑執行人に丸裸にされたとしても、あらゆる種類の低級な手段に導かれたとしても、司法の刀を見つけなければならない。
それはよいことだ、しかし問題もここにある…
トルコでは法の刀は公正ではない。
これまで首尾よく用いられてきたし現在もそうである。
そして我々は未だ社会的調和に基づく民主主義や多元主義による新しい憲法の代わりに、国家で誰が完全な支配をつくりあげるかを議論している。
ヨーロッパでフランクフルト学派はまさにこのような考え方を批判するために生まれたのだった…
一方ではファシズムとナチズムの間に取り残され、危機から危機へと放り投げられた未熟なな資本主義、もう一方ではソビエト型の国家社会主義。
一見すると互いに正反対のイデオロギー…
しかしいずれも国家だ、誰かの手に落ちることが必要な装置というようにも見える。
この状況においてフランクフルト学派の批判的な思想家たちは、現在の我々の状況に明かりを照らすような基本的な議論を明らかにしている。
要約すると:
国家は誰かの手に落ちるような装置ではない。なぜならあなた方がそれを手に入れた時、それは全く気付かぬうちにあなた方の手にあるのだから!
我々も結局、常に個人でありうること、個人でい続けられることの重要性を再度思い返す。
しかし無益である…
国で大火事が起こっている。
国家が誰かの手に落ちたと思う人々は火事を消すのに無力だ…
にもかかわらずこの喧嘩の終わりには「誰の勝ち」かを尋ねる意味はあるのだろうか?

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( 翻訳者:富田祐子 )
( 記事ID:32351 )