Mehmet Kamışコラム:AKPのこの変化はなぜ?
2014年01月01日付 Zaman 紙

公正発展党(AKP)の党派代表ムスタファ・エリタシュ議員とベキル・ボズダー法務相によって、エルゲネコン・バルヨズ両裁判(訳注:共に、クーデター未遂事件に関連し首謀者とされる元軍人らを被告とする政治裁判を指す)の再審への道を開く法改正の可能性が示唆されたことは、政権与党がどこへ向かっているのかという問いを、我々が考えるべきだということを示している。

今までの軍による後見制を終息させたことで称賛され、そのことへの政治的見返りとして選挙で勝利を手にしてきたこの政党の幹部らが、2011年総選挙以前の政策や公約を実現させていないことを、実際、認めている。そして彼らは、クーデターを計画し逮捕された軍人らの再審への道を開く発言をしている。

今までエルゲネコンと手荒に闘っていたと思っていた政党が、いまやその体制(具体的には軍)にたいし陰謀が企てられていると語るなら、またたった数か月という短い期間に、これほどまでに矛盾する政策を実施するなら、それをどう解釈すればいいのか分かるはずもないだろう。2011年6月12日の総選挙までは民主主義や人権、透明性をもっと大切にしていた、少なくとも私たちはそう思っていたはずの政党に何が起こったのか、今や180度正反対の発言をし、これほどまでに矛盾した政策を進めている?何が起こったのか、普遍的法則や民主主義、そして経済といった観点で我々をある一定の水準にまで高めてくれ、さらなる高みをもたらしてくれると期待されているEU加盟の目標に対し、我々は見切りをつけてしまったのか?ここ数年のイランとの複雑な貿易関係の軌跡をたどれば、今私が挙げた矛盾を理解するための手掛かりが見つかるかもしれない、と思わないわけではない。

世界から取り残され、自閉的な自分たちの世界をつくり、民主主義が議論されるべき国では、不透明なことをする方が余程簡単だ。口頭でのやり取りで物事が進み、経済活動も証書やドキュメントなしで行える国では、お金の流れを、意図する方向へ自在に変えることが出来る。これを、祖国、国民、独自の構想と言った言葉で飾れば、どんな相手(反対意見)も黙らせることが出来る。誰かが前に出て、(このことの)責任追及を試みたりすることがあれば、その者に「敵」のレッテルをはり、イスラエルやアメリカの手先と貶めることは、極めて簡単なことだ。

民主主義が全ての組織に定着し、普遍的法則が政治において効力を発している国であれば、行政処分や会計支出は透明なはずだ。だからこういう国では、このような記録されない関係が築かれるのは不可能である。2011年6月12日総選挙以降歩むのを止めた「EUへの道」は、「記録」であり、「法」であり、「平等」であり、「制度化」を意味する。つまり、そうした世界では法律を犯さない限り、誰でもが国家入札に参加でき、全ての入札や特権は、配偶者、友人、知人あるいは親戚と言った基準で割り当てられることはありえない。誰であれ、法律が犯罪とみなさない状況のために、あるいはそれぞれの帰属先ゆえに、排斥されたり、除外されたりすることはないのだ。

誤解しないでほしい、私は、お金の流れにおいて、誰にも説明責任を取らなくてもいいようにとか、記録されない取引がさらに簡単に行えますようにと言って、トルコがその舵を西から東に移したと言っているのではない。しかしトルコの方向性が、透明性や説明責任(アカウンタビリティ)のある政府から―イスラム色を強めるのではなく―「東向き」の政府へと方向転換したこと、そしてこれが全く喜ばしい状況ではないということは確かであろう。

この観点からあなた方が見たときに、昨今この国で起こっている事がらを、単にギュレン教団vs AKPの喧嘩と捉えてしまっては、物事を曲解する以外の何物でもない。トルコは今日、10年にわたりコツコツと手にしてきた物を失ってしまうか否かの争いの渦中にある。国家の方向性を変えた「東向き」政府は、透明性や説明責任(アカウンタビリティ)からほど遠いがゆえに、特定少数のエリート為政者を除いて誰のためにもならないのは明らかだ。

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( 翻訳者:池永大駿 )
( 記事ID:32460 )