研究者トゥトゥンジュ、アルジェリアでの調査を披露
2014年02月09日付 Yeni Safak紙


世界各地にあるオスマン朝の建造物(遺物)を研究し、本にしているメフメト・トゥトゥンジュ氏は自身の最新の本で、アルジェリアを取り上げている。トゥトゥンジュ氏は、「トルコ海賊のハーレム」として知られる海軍本部の建物に、現在それはアルジェリア海軍の基地として使われているため、海賊のように忍び込むことになったという。
長年オランダに住んでいた研究者のメフメト・トゥトゥンジュ氏は、1991年にオランダを本部として設立されたトルコ・アラブ世界研究センターのセンター長を務めている。研究センターの目的は、全世界のオスマン朝建造物の古跡を追い、記録することだ。トゥトゥンジュ氏は、世界各地に長期間滞在し、オスマン朝の建造物の古跡を追い、本にしている。以前はオスマン朝期のパレスチナに関して取り組んでいたトゥトゥンジュ氏は自身の最新の本で、オスマン朝期の地中海地域のアルジェリアにおける古跡を追っている。『アルジェリアにおけるオスマン朝の古跡』というタイトルの3冊目の本は、これから先彼がたどっていく場所の先導者のようだ。

■一冊のために6年を旅で費やす

『アルジェリアにおけるオスマン朝の古跡』という本は、6年続いた集中的な取り組みの中で準備された。アルジェリアやヨーロッパの様々な国々の図書館も入念に調べたメフメト・トゥトゥンジュ氏は、アルジェリアに関する多くの地図や資料が、ヨーロッパの大学の古文書館にあると話す。アルジェリアの海賊が捕えたあるヨーロッパ人旅行者の日記を調べたトゥトゥンジュ氏は、デンマークとスウェーデンにある重要な軍事記録や文書も使ったと述べている。

■地図から見えるある町の物語

メフメト・トゥトゥンジュ氏は、アルジェリアの古文書館にあるすべての古地図を調べたという。この本が扱っているのはほとんどが碑文である。現在アルジェリアにはオスマン朝時代のものが多くは残っていないとするトゥトゥンジュ氏は、オスマン朝の建造物のほぼすべてが、フランス占領期にフランス軍によって破壊されたと話す。しかしフランス人が思いもつかなかったものが残っている。碑文だ。建造物の碑文は博物館に移されている。「我々の手に残っている唯一の(オスマン時代の)痕跡は博物館だ」とするトゥトゥンジュ氏は、地図や碑文からオスマン朝のアルジェリアのポートレートを描こうとしていると話している。

■オルチ・レイスに関するものは何も残っていない

長年、長い道を経てアルジェリアの本を少しずつ編んできたメフメト・トゥトゥンジュ氏に、自身の研究の間に直面した最も面白い出来事の一つが何であるかを尋ねた。彼はバルバロス・ハイレッディン・パシャの兄で大海賊のオルチ・レイスに言及している。アルジェリアを2年間支配したオルチ・レイスに関する痕跡を調べることで研究に取り掛かったとするトゥトゥンジュ氏は、オルチ・レイスが作らせたすべての建造物が完全に破壊され、何も残っていないと話す。「アルジェリア国を建国したオルチ・レイスの足跡をどう説明しようか」という疑問を持ったトゥトゥンジュ氏は、その答えをアルジェリアのある博物館でオルチ・レイスに関する碑文を追うことで見つけた。首都アルジェから120km西にあるシェルシェルという町にある博物館で見つけた碑文が、オルチ・レイスに関係する唯一の物的証拠であり、これが一種のオルチ・レイスの遺言状であることをトゥトゥンジュ氏は強調した。ヒジュラ歴924年、西暦1518年付のこの碑文には、シェルシェル城壁の古い絵と彫刻版があり、より詳細な多くの歴史的情報を初めてこの碑文によって知ることができたと話している。

■オスマン朝にとって重要だった

1516年にオルチ・レイスとバルバロス・ハイレッディン・パシャによってオスマン朝の領土になったアルジェリアは、1830年にフランスに占領されるまでオスマン朝の支配下にあった。314年続いたトルコ人の支配下のアルジェリアをオスマン朝は、整備された都市を作り、建築物を建てて飾った。アルジェリア地方が国家になる基礎はオスマン朝の手によって築かれた。オスマン朝時代のアルジェリアの歴史がトルコでは一般的に知られていないとするトゥトゥンジュ氏は、「我々は何の価値を知っているというのか」と非難もしている。314年続いたトルコ人の支配の後、現在まで独自のたった一つの詳細な研究もなされていないと彼は話す。

■驚きの国

アルジェリアのあらゆる面が驚きに満ちているとするメフメト・トゥトゥンジュ氏は、フランス人の支配者がオスマン朝の年や建造物を完全に消し去り、代わりにフランスが白いアルジェと呼ぶフランスのアルジェリアを作ったと話す。町の海岸側にあったオスマン朝の城壁、兵舎、石切場は、どんな痕跡も残すことなく姿を消したと彼は言う。海岸の一角にある海軍本部の建物が唯一のオスマン朝の証として残っていると彼は説明する。

■中に忍び込んだ

トゥトゥンジュ氏は、海軍本部の建物がバルバロス・ハイレッディン・パシャや他の多くのトルコ人水兵らの特別な地域にあると話す。建物を、トルコ人水兵のというよりもトルコ人海賊のハーレムとトゥトゥンジュ氏はみなす。建物は現在アルジェリア海軍の基地として使われているため調査が難しい。とにかくこの建物を調査することを決めていたトゥトゥンジュ氏は、建物に海賊のように忍び込んだ。正門にいる門番の兵士やそこで働く職員の服を着てごまかした。トゥトゥンジュ氏は、建物の職員のように建物を調べたと話している。

■ハイレッディン・パシャの二番目の旗を映像に

職員を海賊のように騙したメフメト・トゥトゥンジュ氏は、海軍本部の建物にバルバロス・ハイレッディン・パシャの、石の上に刻まれたシンボルがまだそこにあったと話す。また建物の中の海軍のハマムに入り、そこにあった碑文の写真を撮っているときに見つかったことも明かした。「我々もこうしてアルジェリアの戦士になった」と彼は言う。警備をしていた兵士たちにより、建物に一緒に海賊のように侵入した共和国大学神学博士のカーディル・オゾコセ教授が撮った写真は消されたが、自身のカメラの写真は見逃してもらい、こうしてバルバロス・ハイレッディン・パシャのイスタンブルにある海軍博物館に保管されている旗以来、石の上に刻まれた第二の旗を見て、写真を撮るという光栄に浴することができたと彼は話す。旗と碑文は現在発表の準備をしていると話すトゥトゥンジュ氏は、これが歴史的な出来事だとつけ加えた。アルジェリアで最も驚いたことは、アルジェリアの重機による発掘の後、92のモスクのうち7つが残っていたことだ。

■完全なオスマン朝アルジェリアのポートレート

『アルジェリアにおけるオスマン朝の古跡』は、オスマン朝の碑文から始まり、年代順にオスマン期アルジェリアで作られたすべての建造物を一つ一つ取り上げている。オスマン朝アルジェリアを支配したパシャ、知事、レヴェントらの人生、行った慈善活動、墓石一つ一つを調べて、オスマン朝アルジェリアの完全なポートレートを描き出している。まず、このテーマについて初めて読む人たちのためにアルジェリアの州を紹介している。オスマン朝アルジェリアはどのように統治され、ここ独特のシステムであるオジャク・システムはどのように機能していたか、といった問いへの答えがこの本にある。アルジェリアにおける治安システム、都市の門の紹介、兵舎、城壁とまわりの要塞、ベイ宮殿、ジェニネ宮殿を説明し、その後オスマン朝時代に作られたモスク、墓、庵、墓石、水汲み場(チェシュメ)などが、写真と共に紹介されている。

■北アフリカのキリスト教化を彼らが防いだ

バルバロス・ハイレッディン・パシャとオルチ・レイスが北アフリカのキリスト教化を防いだと話すメフメト・トゥトゥンジュ氏は、この時彼らはオスマン朝からの命令で動いたのではないと話す。トゥトゥンジュ氏は、「なぜならスルタンのセリム1世と彼らはトラブルになっていたからだ。彼らは王位継承問題でコルクトの見方をしたので排斥されていた。これにもかかわらずアルジェリアから手にした手紙を口実に、ジェルブから出発してベジャイェの町に来てスペイン人との長く続く戦いを始めた。彼らの後ろ盾として、いかなる国家も信頼できる地元の人もいなかったが、信仰の力でアルジェリアをスペイン人から救い、北アフリカのキリスト教化を防いだ」

■オルチ・レイスの失われていた墓を見つけた

オスマン朝時代から現存する最も重要な建造物は今どんな状態か?
イェニチェリたちのモスクという名前で知られる、とてもよく保存されているモスクがある。また、ケチャヴァ・モスクもある。トルコ国際協力調整庁(TİKA)がそれを修復していると思う。これと並んで海軍本部と造船所がまだ海軍によって使用されている。訪問はできない状態だ。

■1830年のフランスによる占領から今日まで、オスマン朝への見方はどのようなものか?

オスマン朝から最初に切り離された地域であるため、多くの困難を経験してきた。歴史上最大の文化的ジェノサイドを経験したという。オスマン帝国のことは良く言っている。我々がトルコから来たというと、皆身なりを正して、「あなたたちは人間の鏡だ」と言っている。

■『アルジェリアにおけるオスマン朝の古跡』でアルジェリアの問題は棚上げになったのか?

オスマン朝のアルジェリア州の記述は、この本をたたき台に新しい文書や情報で補強しながら続けるべきだ。しかし私は個人としても組織としてもやることはやったといえる。これをやるにあたってトルコ、アルジェリア、オランダからいかなる援助もうけなかった。

■今までで最も重要な発見は何か?

オルチ・レイスと彼の兄弟のイスハク・レイスのアルジェリアとモロッコにある墓を見つけた。オルチ・レイスは1518年10月に殉死した。私は殉死した場所で集中的な調査を始めた。なぜなら国家を作ったこの人物の墓は知られていなかったからだ。オスマン朝の文書には記録が全くない。この墓の修繕と、これらの人物にふさわしい墓が作られなければならない。これと並んで私は、エルサレムで初めてセルジューク朝のスルタン、メリクシャーに関する碑文を確認し、発表した。残念ながらこれらの発見がトルコで然るべき関心を持たれたとは言い難いが・・・。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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(翻訳者:菱山湧人)
(記事ID:32894)