パリのオスマン家末裔の墓、この惨状
2014年02月25日付 Zaman 紙


フランスの首都パリにあるボビニー・ムスリム墓地のオスマン家末裔の墓が、手入れされず放置されているために消滅しようとしている。残存する一部墓石の状態は皇女や皇子らを偲ぶにほど遠い様相を呈している。

トルコ共和国樹立後の1924年にカリフ制の廃止及びオスマン家の強制国外追放により、フランスへも多くが移住していった。最後のカリフであったアブデュルメジトを筆頭に、フランスを選んだ者の大半は窮状の中でも生きていこうと努力した。フランスで亡くなったオスマン家末裔の多くは、当時、トルコが拒否したため、フランス政府によりモロッコ人らに寄贈されたボビニー・ムスリム墓地に埋葬された。

1937年に開設された同墓地に最初にアブデュルハミト2世の娘アイシェ・スルタンの夫メフメド・アリ・ラウフ氏が、最後に、1973年に亡くなったスルタン・ムラト5世の孫シェフザーデ・オスマン・フアト氏の遺体が埋葬された。しかし、1945年に死亡したアブデュルハミト2世の息子シェフザーデ・アフメド・ヌーレッディン氏の墓石だけが唯一現存している。他方、1952年にパリの某ホテルの一室で死亡後にアフメド・ヌーレッディン氏の側に埋葬されたアブデュルハミト2世のもう一人の息子、シェフザーデ・アブデュルラーヒム・ハイリ氏の墓石は、名前が消えた状態であるが現存しているという。その他の人物らの墓石に至っては消失してしまった。オスマン家の墓がある一画の外に位置するムラト5世の娘セルマ・スルタンの墓石は残存しているという

■ オスマン家の墓に訪問者なし

ジハン通信に対して説明してくれたボビニー・ムスリム墓地管理局関係者らは、オスマン家の墓に訪問者はおらず、随分前にフランス人歴史家がオスマン家の墓に関する研究を行ったと伝えた。一方、同関係者らは、訪問者が存在する唯一のオスマン家の墓は、現在もフランス在住である作家のケニゼ・ムラト氏の母である故セルマ・スルタンのものである事を明らかにした。墓地管理局関係者らは、墓のトルコへの移転に関してトルコからの要望の受け入れは、現時点で不可能であると述べた。

墓地管理局関係者らは、墓地開設当初、埋葬者記録が墓地のイマームにより取られ、名前が誤って記録された可能性がある事を指摘した。ボビニー市墓地管理文書館の文書に名前が掲載され、またアブデュルハミト2世の娘であるアイシェ・スルタンの回顧録『わが父はスルタン・アブデュルハミト』という本で触れられているボビニー・ムスリム墓地に眠る一部のオスマン家末裔の名前は以下の通りである:

ラビア・ペイヴェステ・ハヌム(スルタン・アブデュルハミト2世の妻)、シェフザーデ・アフメド・ヌーレッディン(スルタン・アブデュルハミト2世の息子)、シェフザーデ・アブデュルラーヒム・ハイリ(スルタン・アブデュルハミト2世の息子)、シェフスヴァル・ハヌム(カリフ・アブデュルメジトの妻)、プナルディル・ファフリイェ・ハヌム(シェフザーデ・アビトの妻)、シェフザーデ・オスマン・フアト(スルタン・ムラド5世の孫)、ダーマド・メフメド・アリ・ラウフ・ベイ(アイシェ・スルタンの夫)、アイシェ・スドゥカ・ハヌムスルタン(スルタン・アブデュルメジトの孫)、セルマ・スルタン(ムラド5世の孫)

一方、1944年にパリにて逝去した最後のカリフ、アブデュルメジトの遺骸は、当時のトルコ政府が拒否したことを受け、10年間パリの大モスクにて安置された後、メディナへ移送され、ジェンネットゥル・バーキー墓地に埋葬されている。

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( 翻訳者:藤井庸平 )
( 記事ID:33070 )