宗務庁にとっての苦難の時代
2014年03月09日付 Zaman 紙

宗教庁は、トルコでイスラムの信仰に関する職務を行い、宗教に関して社会を啓蒙し、礼拝場所やそれに関わるサービスを指導する役割を持つ国家機関である。憲法によればそれは一般行政の中に位置する。

この機関は首相や政府に付属している。宗教庁長官は、首相と大統領によって任命される。共和国創立以来、最初の3代の長官は在任中に死去した。1960年以降の10人の長官は定年退職させられたりまたは異動によって辞職している。この状態は、組織の運営において政治の干渉が影響していることをはっきりと示している。このため、近年宗務庁に自治的地位を与えるようにする、長官が宗務庁宗教指導職員(ムフティー)によって選ばれるようにする、少なくとも大統領に付属するようにする、というような考えが述べられてきたが、変更はなかった。宗務庁の根本的な問題の一つは雇用する職員の教育について権限がなく、国民教育省に付属するイマーム・ハティプ学校や神学部の卒業生を任命する状態にとどまっていることだ。

退職した長官のうちの一人タッヤル・アルトゥクラチ氏は、出版した回顧録に「困難を乗り越えるとき」という名前を付けた。この命名も作品の内容も、宗務庁がどれほど困難な状況にあり、政治と密接に関係しているかを示している。これと並んで、形成された伝統や長官らの理解ある行動のおかげで、宗務は社会的な秩序に沿う形で行われた。宗務庁は、制限された地位のために行うことのできない一部の宗務を、間接的な申し合わせによって文化的、社会的、慈善的、学問的な財団や協会に任せていた。1967年に出された私的財団法はこの活動に広い活動領域と物質的可能性を与えた。財団の国有化に留まらず、財団設立を防止し、 社会奉仕の重要な源を枯渇させた[建国後]40年間の施策の後、この法整備に続いて設立された何百もの財団は、教育、慈善、文化、健康サービスに活力をもたらした。 宗務庁がこれらの組織と有効な関係を築き、傘のように諸団体の努力を調整しまとめていることは、もちろんより素晴らしい結果を生むかもしれない。

これまで怠られてきたこうした試みの点で最初に率先してことにあたった長官は、私が知っている限りでは、[現長官の]メフメト・ギョルメズ氏だった。長官になってすぐにボランティア団体の代表者らを招待して彼らと協議したいと述べた。しかしこの協議が続いたかどうか、またはすべてを包括していたかどうかは分からない。法が活動分野を大きく制限していたため、篤信家の願いや思いの多くは宗務庁の計画に入れられていなかった。しかし、法に沿った職務を遂行している際に社会的ニーズを指導することで、法の枠組みを自然な流れの中で拡大したのを我々は目にしている。宗教財団の設立は、宗務庁に様々な学問的・社会的活動領域を開いた。イスラム研究センター、イスラム百科事典、私立大学、モスク、出版活動はそれらのうちの一つだ。

宗務庁が他のボランティア団体の心をつかみ、彼らと協力することが、要望されている点であるのは上で言及した。この要望を然るべき形で実現できなくても、妨害しないことによって重要な奉仕を行っていることを我々は忘れてはならない。宗務庁は、当初からこの線を沿って、然るべき時には危機に耐え、政治や官僚ではなく国民の組織であることを示してきたと言うべきだ。こうした好例に触れてみよう。

例えば、1980年軍事クーデタの後、当時374校あったイマーム・ハティプ学校のうち174校を国民教育省が閉校しようとした。タッヤル・アルトゥクラチ長官個人を通じた宗務庁の交渉の結果、政府はあきらめた。大学で女子大生のスカーフ着用が禁止され、宗務庁にスカーフをせずに学習することに関しファトワー(法的見解)が求められたが、宗務高等委員会はイスラム法に反しているこのファトワーを出さなかった。 また1980年以降のある時期に、宗務庁所管のメフメト・オズギュネシュ国務大臣は、「なぜあなたたちはヌルジュたちを押さえつけないのか」と言って締め付けようとすると、タッヤル・アルトゥクラチ長官は短く、「ヌルジュたちは我々の機関で組織化の動きはしていない。このグループに共感を持つ職員がいるかもしれない。国家の組織秩序の点で彼らの私生活で不都合なことがあろうと、彼らを訴追することは我々の職務ではない。我々は宗教組織であり、 警察組織ではない」と応対した(タッヤル・アルトゥクラチ 『困難を乗り越えるとき』Ⅱ pp.546-547, 631)。

1960年クーデタの少し前に一部メディアが実施したトルコ語のコーランと宗教における改革キャンペーンに対して、当時のエユプ・サブリ・ハユルルオール長官の学問的尺度に適った態度も忘れてはならない。重要な問題の一つは次の点だ。1950年より前の一党独裁時代以来、何十もの政府と異なる政権の時代に、 裁判所はサイド・ヌルスィ氏のリサレイ・ヌルという本を調べるために有識者として宗務庁に報告書を出すよう望んだ。しかし最も抑圧的な政府の時代にさえ、一つも反対の報告書は出なかった。委員会の先生たちは、彼の諸作品が、学問的、宗教的、イスラム的作品であり、既存の法律に反した面を含んでいないとした。

2013年9月22日に「預言者的位置:リサレイ・ヌルの展望」というシンポジウムの開会式にメフメト・ギョルメズ長官は、宗務庁の文書群から、およそ50年間に出された17ほどの報告書をまとめて提出し、宗務庁がとったこの過去の態度が大きな誇りを抱く理由となっていると述べた。

一部の篤信家は宗務庁に多くのことを期待し、生起する数多の問題で見解を発表することを望む。しかし彼らは宗務庁の法的な活動範囲が非常に限られているのを知らない。しかし上述したように、この機関は、ある時代に政治的圧力にもかかわらず宗教的感受性のバランスを守ったこと、宗教的ボランティア団体の活動を妨害しなかったこととですばらしい態度を示した。信仰の場所に陰謀や差別が入ることを妨げた。この点で我々は宗務庁とモスクの職員を祝福しなければならない。

2014年の初めから我々の社会や信徒の民は危機的な時代を過ごしている。この時期、レジェプ・タイイプ・エルドアン首相は街頭で社会を分節化し、信徒の民をも潜在的に分裂させる危機をもつ演説を行った。宗務庁が2千人ほどの学者の25年間の努力の成果であるイスラム百科事典の完成を理由に2014年1月25日に催した式典で、エルドアン首相は、場所柄をわきまえず、何千もの宗務関係者に向かって、奉仕団体やその指導者のホジャエフェンディに対しひどい侮辱と中傷を行った。しかしこの団体は昨今できたのではなく、50年前からその奉仕によって社会の中に存在し、何百もの国の指導者や学者が、そもそも首相自身が何十回も評価を口にしてきた奉仕団体である。選挙演説の中で、公約を掲げたり他党と競う代わりに、唯一の敵が奉仕団体であるかのように、「奴らを奴らの巣の中で絞め殺す、奴らはアヘンであり、武装集団であり、汚い組織だ、奴らの学校、塾、出版物をボイコットせよ」などといった糾弾を行っていた。しかし罪が犯されたなら、行うべきことは捜査を開始し、法的手続きの結果を待つことだ。しかし彼はいかなる証拠も出すことなく、司法も関わることなく、ことを執行している。この緊張状態で宗務庁が伝統的慎重な態度やバランスを守ることは極めて必要なことだ。

宗務庁は現在、私が見る限り、中央が発した説教(フトバ)によってこの団結と調和の環境を護ろうとしている。「いかなる兄弟愛?」、「施しの心」、「宗教は誠実さである」、「許すこと」、「信徒と時代」といった説教を私は個人的に再検討した。これらが、我々の宗教のいくつかの道徳的価値を信徒に説明しようとしている、政治的示唆を含まない文章であることが分かった。問題を常識でもって取り上げ、意図を読み取ることから遠ざかる必要がある。 宗務庁が全ての信徒と社会を包み込む威厳のある行動を続けることを望む。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:33182 )