Taha Akyolコラム:バシュブー元参謀総長釈放決定の法的背景
2014年03月08日付 Hurriyet 紙

憲法裁判所がイルケル・バシュブー元参謀総長に関して示した判断は、法律家たちにとって驚くべきものではなかった。

高等裁判所は欧州人権裁判所の法解釈を基準とし、法律の世界標準に基づいて決定を下す憲法上の司法機関だからだ。
バシュブー氏に関する判断の根拠は2つある。
1-バシュブー氏を有罪とした重罪裁判所は未だ根拠のある判決を出しておらず、書類が最高裁判所に届くのもこのために「遅れた」・・・
2-バシュブー氏の前の釈放要請は重罪裁判所によって「有効な形で調査」されることなく棄却された。
裁判所はこの2つの理由から「個人の自由と安全保障」が侵害されていると結論付けた。バシュブー氏は今日釈放される。
憲法裁判所の判断は非常に重要な解釈だ。

■なぜ重要か

バシュブー氏の弁護士、イルカイ・セゼル氏が憲法裁判所に1月22日に訴えた内容に基づき、35日という非常に短い期間で判断が下された。これは公正な司法という概念を憲法裁判所がいかに重視しているかを示している。
憲法裁判所はバルバイ氏とその他の議員について「国会議員への選出」、ファーティヒ・ヒルミオール氏について「生存権」を基本とした決定を下した。バシュブー氏に関する判決とともに2つの概念は既に法基準となっている。司法の決定が一定の期間以上「遅れること」と裁判所が「有効な調査」をしないことはもはや人権侵害だ。
これは、トルコの司法システム全体に良い影響を与えるだろう。トルコで公正な司法の発展の助けとなるだろう。忘れないでもらいたいのは、EU諸国でも「公正な裁判を受ける権利」の概念が広まりつつあるということです。

■最終決定ではない

憲法裁判所の、バルバイ氏からバシュブー氏にまで及ぶ「個別の訴え」に関する判決は、完全に公正な裁判を受ける権利、つまり広い意味で「方法」に関わるものである。「法判断の根幹」に関わるものではない。「どういった罪であるか、どういった特徴があるかとか証拠がどうだとか」といったようなことに憲法裁判所は関与しない。これは裁判所の仕事だ。
私はバシュブー氏に関する裁判所の決定が「法判断の根幹」の観点からも誤っていると考えている。私が初めてバシュブー氏の裁判に関する批判的な記事を書いたのは2012年1月6日だった。これに関する私の記事の数は13に上る。バシュブー氏の逮捕と裁判の過程を「方法」の観点からも批判してきた・・・また「法判断の根幹」といった点からも、つまり「組織」と「試み」といった概念が現実のものとなっていない(リアリティーを持っていない)という観点からも誤っていると考えた。
今この裁判で「法判断の根幹」に関する最後の一言を最高裁判所が言うだろう。その後、再び憲法裁判所に移るかもしれない。

■独立・中立的な司法

トルコで憲法裁判所に訴える権利と裁判官・検察官高等委員会(HSYK)の中立性は、2010年の国民投票によって決定されており、とても好ましいものである。しかしこれらは後退している。行政機関の裁判官・検察官高等委員会に対する影響力を過度に強化する法律ができた。首相の電話の録音で分かったように、行政が司法に干渉する動きがある。検察官の任命もそうだ。司法の機能や法律の世界標準のローカライズにも質的な問題がある。しかし他方で喜ばしいこととして述べるべきこともある。トルコにおいて「法律の世界標準」という考えとその実践は進展している。憲法裁判所や裁判所、行政裁判所の判決において法律の世界標準に触れることが増えている。
おじけづいた悲観論も向こう見ずな楽観論も間違っている。法学部から始めて、司法における専門性の質の強化と、特に政治的、行政的、哲学的「中立性」の文化の発展に向けて努力しなければならない。司法の独立と中立は裁判官の名誉だ。トルコで「法的保証(法的信頼)」を有することでもたらされる安定をも、法律の世界標準を持った、そして独立性と中立性をもった司法によってのみ保障されうるのだ。

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( 翻訳者:南澤沙織 )
( 記事ID:33229 )