ギュレン師の血筋を証明する!
2014年03月21日付 Zaman紙

近年、フェトフッラー・ギュレン師に対し、「偽の聖者、嘘つき預言者、学者もどき」といった心を傷つける言葉とともに出自に関する中傷も行われている。師について、アルメニア人だとか、ユダヤ人だという見方も存在する。しかしながら、ちょっと調べれば、家系について簡単に知ることができる。

デルスハーネ(予備校・私塾)[廃止]で始まり、12月17日不正捜査より続くプロセスの中で、我々の目前では信じがたいデマが流れている。特に教団、ギュレン師に対するばかげた中傷、誹謗が心を、良心を傷つけている。受け手の側で否定され、打ち消された情報にいまだ砂漠でオアシスを発見したかの如く群がる者達に、人はまさに驚くのだ。この意識的なキャンペーンに水を運ぶ者がこの無機質な対応を続けるのは、真実を知らないからなのか、調べないからなのか、あるいは知っているが操作を続けるためなのか。この問いに対し、ギュレン師は非常に好意的に「嘘つきとは呼ばない。事実に反したことで人をミスリードしている、と言っておこう」と受け答えた。報道の根底問題に移ろう。

近年、フェトフッラー・ギュレン師に対し、良心の持ち主が受け入れない「偽の聖者、嘘つき預言者、学者もどき」といった心を傷つける言葉とともに出自に関する中傷も行われている。 師について、アルメニア人だとか、ユダヤ人だとする見方も存在するが、この2つのアイデンティティであることは、民主主義や人権が存在するいかなる国でも問題はない。ただ、交通事故でさえ外部の勢力(の存在を)模索するトルコでは少々状況が異なる。

今日、トルコでは記録を調査することについて、より開放的になっている。ちょっと調べれば、我々の祖先の情報に即座にたどり着くことが出来る。師の出生場所、暮らした場所は明らかであり、親戚、祖先が誰であるかはっきりと分かる一方、ちょっとした調査で家族、家系について簡単に知ることができるのだ。

■記録から祖父の通り名さえ知ることができる

今日トルコでは、非常に多くの人が、自分の家系について3世代以上諳んじられない。フェトフッラー・ギュレン師の両親の系譜より、師の曾祖父に関する口承・書面記録が存在する。首相府オスマン文書館の文書、租税台帳、イスラム法廷台帳、内務省管轄の戸籍記録で、自分の祖先の情報について簡単にアクセスできる。特に、きちんと保管されている16世紀の租税台帳、19世紀のアナトリア・バルカンの大半につききちんと記録を取っている資産台帳はこの面で豊かな内容をもっている。こうした記録で、特に男性に関する名、村名、郡名、部族名、通り名、不動産、農産物、所有家畜数に至るまでの詳細な記録を知ることができる。近年、マフムード2世治世下で実施された初の人口調査関連記録の大部分が研究者の利用に供されたことも、家系調査に大きく役立っている。特に、この記録中で、男性の身体的特性から出生・死去日、あるいは移住していればこの種の情報も含め入手することはもはや難しいことではない。

今日、残念ながら嘘と中傷の分限をわきまえない物の考え方は、「ちゃんとした系譜」の出の人に対してさえ非難を向けうる。その道の専門家には容易に理解できる文書は、師の祖父について下記のとおり伝える。

ギュレン師の父方の系譜は、家系を5世代に渡って遡ることができる。師の父ラミズ・エフェンディの父であるシャーミル・アーには、兄弟が4人おり、それぞれメフメト・アリ・エフェンディ、ザーキル・エフェンディ、アーキフ・エフェンディ、シャーキル・エフェンディという。彼らの父はモッラー・アフメトといい、ハサン・ エフェンディという兄弟が存在する。彼らの父はフルシト・エフェンディ、その父はハリル・アーで最初ハサンカレ、その後コルジュクに住む。ハリル・アーの父はセイット・ハムザである。セイット・ハムザの墓は、本人の亡くなったアフラートに所在する。家族、また、コルジュク村の年配者が伝える父方の系譜に関する口承についての文書による確認は、イスラム法廷台帳、内務省管轄の戸籍記録で調査を行う学者[の研究結果]を待つ必要がある。

■ギュレン師の母方はムスリムでスールル村出身

ギュレン師の母レフィア・ギュレン(故人)は、パシンレルに関する第65巻42ページの戸籍記録を見ると、その父の名はアフメドである。家族内ではセイイド・アフメドとして知られる。その父はメヴルト・アー、更にその父はヌマン・アー、祖父はモッラー・アフメトである。その父は、曾祖として知られるムスタファ・アーである。ムスタファ・アーの長男はセリム・アーである。セリム・アーはアブデュルハミドとメフメドという二人の子供がいるという。アブデュルハミドという名の子供はかのクルド・イスマイル・パシャの娘と結婚した。ムスタファ・アーはかつてエジプトで政府により職務を命じられた人物の1人であると噂されている。この口承の情報が、首相府オスマン文書館の文書や村にある泉水碑で確認されている。つまり、ギュレン師の母方の祖先がムスリム[居住]を記録したスールル村に住んでいたことがわかるのである。

家族内で世代間を伝って得られる情報全ては、首相府オスマン文書館の文書で確認できる。言い換えるならば、母レフィア・ハヌムは、モッラー・アフメド―ヌマン・ エフェンディ―メブルド・エフェンディの系譜からきている。ここにある文書は、ヌマン・エフェンディ、モッラー・アフメドの系譜を文書により確認する、つまり確証史料の性質をもつものなのである。つまり、ギュレン師の母方が非常に明確にムスリムの村で暮らし、さらに、村の指導者であることがはっきりとわかるのである。

この情報の他に、歴史資料のひとつとされる「碑文」の情報についても注目する必要がある。それは、レフィア・ハヌムの曾祖、つまり、ムスタファ・アーの兄弟でコルアース職にあったハジュ・アリ・ベイに関して。彼は、スールル村に泉水を建造した。この泉水は、村で「ハジュ・アリ泉水」として知られ、「善行の主、エル=ハッジュ・アリ・ムスリー」と[碑に]記された。[碑には]ヒジュラ歴1171年との記載があり、家族がエジプトから渡ってきたことに関する噂を証拠づけている。ここではさらに仔細には立ち入らないが、以前に何度も指摘されたように、ギュレン師は、母方の系譜では有名なオスマン時代の著名な司令官、クルド・イスマイル・パシャ、[バルカン戦争時の]エディルネの防衛者シュクリュ・パシャとも親戚にあたる。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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(翻訳者:山根卓朗)
(記事ID:33290)