クルド系BDP,得票減らすも、選出首長数は増
2014年03月31日付 Milliyet 紙


南東アナトリア地域で平和民主党(BDP)は得票率を下げたが、選出首長数については増えた。ディヤルバクルでギュルタン・クシャナク氏、マルディンではBDPが支持したアフメト・チュルク氏が選挙に勝利した。BDPはさらにバトマン、スィールト、シュルナクで、以前に獲得した与党の座を確保した。

BDPは、選挙プロパガンダを「クルド住民投票」と捉え勝利の結果を手にした場合に「民主的自治」の実践に移行することを宣言し、予想された爆発的勝利ではなかったが、申し分のない結果を手にした。BDPと民主主義党(HDP)の総得票数は民主市民党(DTP)の2009年の得票数を越える一方、 BDPはディヤルバクル(の得票率)が12%下落した。BDPはマルディンを得て3つの広域市を獲得した。BDPはさらにバトマン、シュルナク、スィールトの選挙で勝利した。

BDPは、マルディンでは政治活動禁止の無所属のアフメト・チュルク氏を支持し、選挙に勝利した。シャンルウルファでは前ディヤル バクル広域市長のオスマン・バイデミルとともに追い風を起こそうとしたBDPは、郡部で勝利したにも関わらず市中心では敗北し、公正発展党(AKP)の後塵を拝した。

■得票数は増加したが、得票率は低下

2009年の地方選挙でBDPは、DTPとして選挙に臨んだ。BDPは広域市、県、郡の自治体で投票数を増やしたにも関わらず、得票率は下落した。

2009年の選挙ではDTPはトルコ全体で5.7%の割合で票を得たが、2014年の選挙ではこの割合はHDPと併せると7%を超えた。BDPは2009年に計98の自治体を勝利した。1990年代に設立され、クルド・ヒズブッラーとの関係が深いといわれる自由ダウア党(HÜDA PAR)と2002年にディヤルバクルで結成されたクルド人を中心とする正義・自由党(HAK-PAR)も選挙に参加した。HAK-PARの指導者を、31年間ヨーロッパに滞在し2011年に帰国したケマル・ブルカイが務めた。ブルカイは1970年代に設けられたクルディスタン社会主義党の総書記をかつて務めた。HAK-PARは選挙で存在感を示めせない一方、HÜDA PARは、最初に臨んだ地方選挙において、地方で共和人民党(CHP)を追い抜いた。HÜDA PARは、ディヤルバクルで1.68%に留まる一方、その牙城であるバトマンで7.21%の得票を得た。HÜDA PARは支持者が多い県の一つであるシャンルウルファでは1.58%に留まり、票はAKPへの流れたとみられる。

■CHP消滅

南東部の選挙戦は、BDPとAKPの(二党)間で競われ、この二つの政党をHÜDA PARが追いかけた。非公式の選挙結果によれば、同地域の看板政党とみられていたCHPは、結果的にほとんど消滅した。CHPはディヤルバクルで1%となったが、南東部地域の多くの県で目立った存在とはなれなかった。

ディヤルバクルで勝利を宣言したBDPの広域市自治体共同代表候補者らが、選挙結果に関連し感謝の会見をおこなった。

■「これは人びとの勝利」

ディヤルバクル広域市自治体の行政を執ることが確約されたギュルタン・クシャナクBDP共同代表とフラト・アンル共同代表の署名が入った書面による発表では、「これは人々の勝利です。人びとが獲得したものです。私たちは、今後、この古い都市、アメド(ディヤルバクル)にふさわしいよう努めます」と述べた。

クシャナクBDP共同代表は、選挙後に関する記者の質問に答え、「勝者はBDPです。全体の当選名簿の内訳をみてみると、BDPは得票数が増え、(獲得した)自治体の数が増加し、重要な場所で大きな成果を挙げたということができます」と述べた。

匿名を希望するディヤルバクルのあるBDP幹部は、「(南東)地域ではBDPが、トルコ全体ではAKPが勝利した。和平解決プロセスを継続させるために、強い意志が必要であり、それが担保された。政府が解決案の第二段階となる交渉を開始することを希望している」と説明した。

■ガーズィアンテプはシャーヒン女史

ガーズィアンテプ広域市行政は、家族社会政策省前大臣でAKP候補のファトマ・シャーヒン女史が獲得した。シャーヒン女史はガーズィアンテプで最初の女性広域市行政を担うという肩書きをこのようにして手にした。3期、国会で活動したファトマ・シャーヒン女史は、家族社会政策省大臣を辞職し、地方行政首長の候補となった。

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( 翻訳者:岸田圭司 )
( 記事ID:33372 )