Hüseyin Gülerce コラム:選挙結果とジェマート…
2014年04月02日付 Zaman 紙

私は選挙の5日前に書いたコラムで、我々は3月30日の夜に、5つの基本的問題の答えを得るだろうと述べていた。そこで、最初の2つの問いについて、答えを出してみたい。

1:(2013年)12月17日および12月25日の捜査によって論争の焦点となった汚職収賄疑惑は、有権者にどのような影響を及ぼしたのか?見たところ、疑惑は、選挙の勝者である公正発展党に票を投じるつもりの有権者には影響を与えなかった。この要因については、概ねのところアナリストたちが発言している。この件で有権者を責めたり侮辱したりすることは、民主主義の流儀とは相容れない。

2:公正発展党とジェマート[ヒズメット運動(ギュレン運動)を指す]の問題は、選挙結果にいかに影響を及ぼすのだろうか?初めに強調しておく必要があるが、勝利の興奮や敗北の感傷によって、私の発言の正しい理解が隠微されてはならない。私は思想および表現の自由を行使して、良心に従い自分の考えと信じるところを述べずにはいられない。ヒズメット運動が広がるにつれて、一つの社会的現実として自らをヒズメットの一員と見なす人々においても、ヒズメットを外部から眺め、観察している人々においても、差異化が生じている。前者と後者は解釈における差異があり得る。私個人としては、一貫として「ああ、足りるだけの水を運ぼう、炎が大きくならないように。言動に注意が払われなくてはならない、罵る者すべてが言葉を失い、殴る者が腕を失わねばらない日々を我々は生きている」と言うことを選んだ。さもなくば、ヒズメットが害を被ると思ったのだ[訳注:筆者のギュレルジェは、長年ギュレンのスポークスマン的な役割を果たしてきた古参幹部の一人だが、今回のエルドアン・公正発展党政権との対立については、運動の方針に否定的な見解を表明していた]。

ヒズメットは政治的に構成されたものではない。だが、政治的立場をとることは、あらゆる市民社会運動と同様に、民主的な権利である。公正発展党に投票されるべきではないと認めることができるし、それを奨励することもできる。それにもかかわらず諸選挙において成功しなくとも、それは敗北と見なさずともかまわない。というのも、政治の世界ではあらゆる敗北は、収穫という名の、今後の動きに備えるという名の経験であるためだ。実は、全ての政党のアプローチもこうである。

ただ次のことを認める必要がある:政治の世界では唯一の正しさは存在しない。以前は組織では生じなかった差異が、政治の世界においては不可避的に生じる。例えば、首相が広場でヒズメットの人々に向けた手厳しい言葉、傷つけるような言葉遣いは決して容認され得ない。しかし共和人民党に投票することは、一部の人々にとっては非常に難しいことであり得るということだ[訳注:選挙前、ヒズメット運動は公正発展党への対抗のため、野党第一党の共和人民党への投票を呼びかけていた]。こうした差異に対し、辛辣かつ冷ややかな、他者を疎外するようなアプローチを向けることは不当であり、われわれが奉じる民主的諸原則にも反する。政治の世界では、あなた方は以前の奉仕分野においては全く遭遇しなかったような批判を向けられることもあるのだ。

ヒズメット運動では、政治の世界に部分的に足を滑らすことがあっても、「ヒズメットは、政治とは異なる一領域である」と考えるなら、「起きたことによって、経験をまた一つ獲得した」として、成熟と完全性のなかでキャラバンの針路を保ち続ける。一部の摩耗を損失とは見なさず、堅調な歩みが必要とする浄化と見なすのである。

ヒズメット運動を政治的な一運動として見なすことに固執する人々は、確かに、選挙結果を見て、勝利の感情を覚えることがあるかもしれない。しかしヒズメットの人間として重要なことは、運動のメディア組織において示す必要のある敏感さである。というのも、ヒズメットの教育、とりわけ国外におけるトルコ人学校、対話、保健サービス、互助運動が公然と批判の対象にされることは難しいからだ。実のところ今日まで、意図的な批判を除き、これらの分野に対して敵意を持って見る者はいない。しかし、メディアの領域ではそうではない。ヒズメットの流儀がメディアで最大限に守られる必要がある。

ヒズメット運動は、私にとって、自己受容の根本に関わるものでありながら、普遍的価値における連携、進歩的な民主主義の要求によって世界に伍する運動である。親近感、承認そして信頼の名の下に、この目標が特に守られることが、私はとても重要であると考えている。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:幸加木 文 )
( 記事ID:33409 )