父が殺された場所で首長に:ジズレ新首長レイラ・イムレト
2014年04月06日付 Radikal 紙


選挙でジズレ自治体の首長となったレイラ・イムレト氏は、自身の経験や人生をアイシェ・アルマンに語った。

3月3[0]日の地方選挙で平和民主党(BDP)のジズレ自治体の首長候補として出馬し当選したレイラ・イムレト氏の物語は、ほとんどすべてのニュースチャンネルで取り上げられた。7歳の時に父が殺され、その後家族とともにドイツに行き、そこで育ったイムレト氏は今、ジズレの首長である。

ヒュッリイェト紙のアイシェ・アルマンがレイラ・イムレト氏と会い、彼女の物語を彼女自身から聞いた。

これがそのレポートである。

ーレイラ・イムレトさん、自己紹介をお願いできますか?

「何語で話しましょう?」

ー話しやすい言葉でいいですよ。

「それなら、ドイツ語で始めます。時々トルコ語に戻ります。うまく表現できないことであればクルド語に移ります。」

ーわかりました。

「1987年にジズレで生まれました。7歳の時までジズレにいました」

ー子供時代に関して覚えていることは何ですか?

「とても狭い通り、尽きることのない銃声、毎晩家の地下室に降りなくならなかったこと、焼かれる家、逃げまどう人々、なぜ叫んでいるのかわからず、打ちひしがれ、悲嘆にくれる母親たち。このあたりは、苦しみが支配する土地です。私たちはいつも家から出ないように注意されていましたが、一回言われたことを聞かずに出ると、一生全く忘れることのできない光景を見てしまいました。何百もの人が地面に横たわっていました。私は子供心に、『この人たちの家はないのだろうか、なぜ道ばたで寝ているのか』と考えていました。それらが死体であることをずっと後になって知りました。また、夢にまで出てくる戦車の話があります。」

ーそれは何ですか?

「家の前の狭い通りで遊んでいるとき、突然争いが生じ、銃声が聞こえ、その後私たちのその狭い通りに一台の戦車が突っ込んできました。皆逃げ始めました。走っているとき後ろを振り返りました。戦車が追いかけてきました。逃げられない、助からないという気持ちに襲われ、パニックになり、恐れ、怖がりました。 まさにその時、ある家の両扉に触れ、私はとっさにそこに入りました。戦車は通り過ぎて行きました。どれだけ怖かったのか、これだけ時が経っても、いまだに夢に出てきます。」

ー何人兄弟ですか?

「3人です。」

ー両親は何をされていたのですか?

「母は仕事はしていませんでした。父は、仕事を見つけたら働くという風でした。彼は「自由の戦士」でした。90年代にジズレで起こったことは恐ろしいものでした。死者、犯人不詳の犯罪、失踪者。殲滅政策が行われていました。何千人もの人びとと同じように私たちも当時の出来事でひどく苛まれました。」

ーお父さんがあなたの目の前で撃たれたというのは本当ですか?

「いいえ、私はそこにいませんでした。母は弟を身籠っていました。安全上の理由から他の場所にいました。私にはあとになって説明を受けたのですが、父は家に向かっており、まさにその時に攻撃が行われました。誰彼一切構わず、家々が穴だらけにされました。父は、家の者皆を救いましたが、自身をその銃弾から救えず、死にました。」

ーお父さんの死はあなたにどのように影響しましたか?

「家族が手からこぼれ落ちてしまいました。離れ離れになりました。子供の時に経験したそのトラウマのため、その後教育学の教育を受けました。子供たちをより良く理解できるように。そして多分こういった経験すべてに意味を与えるために。私の子供時代は大変でした。父の死だけが私の経験した唯一の苦しみではありません。」

ーお父さんに関して覚えていることはありますか?

「父とは数多く会うことはできませんでした。家に頻繁には来ませんでした。しかし来た時には必ずチョコを持ってきていました。そのためチョコは私にとって特別な意味を持ちます。父と別れるときはいつも泣き、終には永遠に別れなければなりませんでした。」

■母と13年ぶりに抱き合えた!

ーお父さんの死後、あなたの人生はどうなりましたか?

「まずメルスィンの母方のおじの元に行き、そこから一挙にドイツです。目的は、家族でドイツに移住し、そこですべて零から始めることでした。」

ーどうなりましたか?実現しなかったのですか?

「はい。私は、先に母方のおじ、おじの妻とその3人の子供と一緒に行きました。母と兄弟は後から来る予定でしたが、来られませんでした。」

ーなぜですか。

「私たちのは大丈夫でしたが、母たちの書類は用意できてなかったからです。私は行きました。家族は後から来ると思いましたが、そうはなりませんでした。」

ーその後ずっと来ませんでしたか?

「ずっとです!なぜならもう条件が変わっていたからです。母は、両親を亡くしていました。年下のおじ(母の弟)は、地雷を踏んで片足を失っていました。裁判所で年齢を詐称して[公正証書原本に不実記載を試み]懲役36年を言い渡され、22年服役しています。母も自分の弟を放っておけませんでした。このような状態です。私も帰れませんでした。仕方なくドイツで自分で新しい人生を築きました。」

ーそれでは7歳のときから両親も兄弟もいなかったのですね。

「はい。その後おじもなくなりました。おばが、自身の子供と一緒に私も育てました。」

ードイツで育ったことは幸いですか、不幸ですか?

「不幸です。子供が、親なしで育つことはもちろん大きなトラウマです。確かに、いい教育を受け、今あなたが見ているこの私になりました。優秀な生徒でしたし、社交的でした。しかしいつも何かが欠けていて、いつもしかめっつらで、いつも言い表せない悲哀が私の中にありました。母の姿は写真の上だけで、 たまに電話で話していただけです。苦しみとはおかしなものです。ある一定の人は、ある一定の苦しみを持って生きています。慣れたり、またはある形でそれと共に生きることを学びます。私も学びました。」

ードイツで困ったことはありませんでしたか、トルコに帰りたいと思いませんでしたか?

「いいえ、全く。馴染みました。私はとても上手にドイツ語が話せます。自分が入ったどの環境でも自分を気に入ってもらうようにしていました。帰ろうという意思は全くありませんでした。私たちをお互いに引き離すすべてのものはまだトルコにありました。圧政、死の危険。なぜ帰りたいと思うでしょうか?」

ーその後は?

「その後、2008年に素晴らしいことがありました。13年ぶりにトルコに来ました。母や兄弟と会った瞬間は映画のようです。抱き合い、泣き、ショックを受け、驚きました。なにしろ10年分の郷愁です。」

ーお母さんはあなたを見たとき何をしましたか?

「驚いていました。これほど大きくなれると予想していなかったのでしょう。その後5年間トルコに行ったり来たりしました。絶えず、『私はここで暮らせるか』と考えていました。とても困難な決断でした。ドイツにも慣れた生活と環境がありました。友人がいました。いつも何かしたいと思ったらそれをやっていました。自由でした。いくつかの違う仕事に就きました。しかし最後は、私が属する場所はここで、家族のそばにいると決め、数か月前に完全帰国しました。」

■ドイツでは禁止されていなかったので自分の文化を守れました

ークルド文化とドイツ文化両方で育ったのですか?

「ドイツの学校で学び、ドイツ文化を受容しました。しかしそこでは禁止されていなかったので自身の文化からも離れず、むしろより強く結びつきました。ドイツ語もクルド語も授業を受けました。クルドの文化組織にも通い続けました。」

ーあなたのクルド語はトルコに住む多くのクルド人女性よりも上手ですね。どうしてですか?

「クルド語の教育を受けるだけでなく、一時期トルコではクルド語で話すことさえ禁止されていました。でも私はドイツで週に二回クルド語の授業がありました。ドイツ語もすぐに習得しました。」

ードイツであなたは全く疎外されませんでしたか?

「ドイツ人にとってドイツ語をうまく話し、ドイツ文化に適応し、成功すれば問題はありません。また、彼らは見た目を重視します。私はこれらの条件に合っていました。その上、私の見た目はモダンな感じでした。」

ー圧力はありましたか?

「家族や周りからですか?全く。圧力や不和は全くなかったです。ドイツ人は私が外国人であることさえ信じていませんでした。ヨーロッパで育った外国人の一部は二つの文化の狭間にいます。家の外ではドイツの文化に、家の中では自身の文化に向かい合っています。自身の文化から遠ざかればすぐにドイツ化してしまいます。私はそうはならず、自分の文化をいつも守っていました。」

■6人の候補者がいましたが、最も多くの票を私が得ました

ー政界に入ることをどのように決めましたか?

「もともと政治に興味がありました。私は良く勉強し、世の中の出来事をフォローし、知っており、クルドの歴史を調べます。もちろん経験したこと、聞いたこと、読んだこと、自分の故郷で経験した苦しみは、私を積極的に政界に入るように促しました。」

ードイツから完全帰国して直接ジズレに来たのですか?

「いいえ、その前にメルスィンに来ました。2-3週間そこに滞在しました。ジズレに再び行くという決断をするのは、私にとって簡単ではありませんでした。父がそこで殺されたからです。しかしその後勇気を振り絞り、行きました。私たちの古い家を見つけました。子供の時に遊んだあの狭い路地を歩きました。24年ぶりに父の墓に行きました。そしてそこで私はこのように感じました。『探していた場所はここだ、望んでいたものはここにある!』そのように感じました。自分の故郷の女性たちのために、故郷の人々のために何かしたいと思い、首長候補に立候補しました。他に5人候補がいましたが、209票差で私が勝ちました。」

ー誰もあなたをよそ者だと考えませんでしたか?「これほど長くブレーメンに住んでいた人がジズレで何ができるのか」とは言いませんでしたか?

「逆にとても温かく迎えてくれました。皆私の家族のことや経験したことを知っています。私を支持してくれました。」

ーあなたは自分に全幅の信頼を置いていますか?考えたことを実行できますか?

「もちろんです。そのためにここにいます」

■女性たちの役に立てればわたしはどれほど幸せか

ーやろうと思っていることは何ですか?

「女性たちが自立できるための可能性を用意したいです。組合を設け、雇用を創出し、社会参加を保障することです。もっとありますが、少しずつすべてを実現します。」

ー『共同代表』で問題は起こらないのですか?一つの問題で二人の人が決定を下すのは困難を生みませか?

「いいえ、逆に仕事を容易にします。『共同代表』は、強権的なアプローチを認めず、男女平等の考えを捨てず、実践するシステムです。社会学者、心理学者、作家、新聞記者が来て、よく分析して、仕事の進行を見ればいいのにと思います。このシステムは女性に素晴らしい自由をもたらします。」

ーこのシステムはどのように機能しますか?

「ジズレの人口は11万人です。外からの移民を入れると14万人になります。ジズレでなされる決定は、私たち二人の長がするのではなく、すべてのジズレの人々がします。人々が自分たちの決定を自分たちで行う力をつけることを、私たちは『民主的自治』と呼びます。ジズレを統べるのは、私たち二人以外に、 議会と組織、そして人々です。」

ーBDP以外の政党にはこのような「共同代表」システムはありませんよね?

「ありません。絶対にありません。BDPは、女性問題で最も民主的な政党です。私は首長の仕事をがんばって行いたいと思います。役に立てればどんなに幸せでしょう。あることのために努力することは世界で最も素晴らしいことです。特に自由の為なら。」

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( 翻訳者:菱山湧人 )
( 記事ID:33413 )