史上初!4月24日を前にエルドアン首相、アルメニアの人々へ「御悔みメッセージ」
2014年04月22日付 Hurriyet 紙


トルコは、1915年の出来事(訳注:いわゆるアルメニア人虐殺事件)100周年の節目まであと一年を目前にして、驚くべき行動に出た。これまで毎年4月24日にホワイトハウスから届くアルメニア声明の内容に気をもんでいたトルコ政府は、今回アメリカ大統領(の声明)を待たずに自ら声明を発表した。

トルコ共和国史上初めて、1915年の出来事の節目の日に、首相レベルでアルメニアの人々への哀悼声明が発表された。レジェプ・タイイプ・エルドアン首相の名で首相府から書面で発表された声明で、アルメニアの人々へ哀悼の意を表した。

■米大統領は「メド・イェゲルン(大殺害)」、トルコ首相は「強制移住」

アメリカのバラク・オバマ大統領は大統領選前に行ったキャンペーンで、アルメニア人ジェノサイドの主張を公式に認めると約束したが、大統領就任後に注目されていた4月24日の声明では「ジェノサイド(大量虐殺)」とは述べず、アルメニア語で「大殺害」を意味する「メド・イェゲルン(Med yegern)」という表現を用いた。オバマ大統領は、その後毎年発表される4月24日の声明で同じ表現をくり返した。
オバマ大統領が「メド・イェゲルン」と述べた1915年の出来事に関し、トルコ共和国のエルドアン首相は発表した声明で、アルメニアの人々が体験したことを「強制移住」と表現した。首相は声明の中で、「宗教や民族を問わず、何百万もの人々が亡くなった第一次世界大戦中に、強制移住という非人道的結果をもたらした出来事が起こったことが、トルコ人とアルメニア人の間における思いやりや、互いの人道的態度や振る舞いが示されることへの妨げとなってはならない」と述べた。

■アルメニアの人々に初の哀悼の意:「亡くなったアルメニアの人々の子孫の方々に哀悼の意を表します」

アルメニア人が1915年、強制的に居住地から追い出されたという意味で使われる「強制移住」ということばは、トルコの為政者たちによって長い間使われてきた表現である。したがってこの表現は目新しいものではない。
しかしエルドアン首相が4月24日の声明を発表した一方で、彼が行ったもう一つの「初めて」は、1915年の出来事に関し、その時代に起こった出来事の最中に亡くなった他のオスマン帝国の人々と区別し、アルメニアの人々に改めて哀悼の意を示したということだ。
「古来、他にかえがたい土地に暮らしてきた似通った伝統や慣習をもつ人々が、過去を「大人として」話すことができ、また失ったものをそれぞれにふさわしい方法で、共に哀悼するという希望と信念をもちながら、20世紀初頭の状況の中で亡くなったアルメニアの人々の冥福を祈り、その子孫の方々に哀悼の意を表します」

■他のオスマン帝国の人々も忘れられてはいない:オスマン人を強調

しかしエルドアン首相は、アルメニアの人々を自身の名で哀悼したこの声明のすぐ後に、この問題に対しトルコがとっている立場に沿った形で、その時期に起こった出来事で亡くなった他の人々をも改めて哀悼し、「オスマンル(オスマン帝国の人々)」ということを強調した。
「同じ時期に同じような状況で亡くなった、民族的・宗教的ルーツは何であれ、全てのオスマン同胞を、同情と敬意をもって哀悼します」
エルドアン首相の「オスマン同胞」という強調は、声明の中で何回か繰り返された。
「オスマン帝国末期が、いかなる宗教や民族的起源であれ、トルコ人、クルド人、アラブ人、アルメニア人や他の何百万ものオスマン同胞にとって苦難に満ちた辛い時代であったことは認めざるをえません」

■「痛みのヒエラルキーがあってはならない」

エルドアン首相の声明には、また「オスマン同胞」を強調しているような表現以外に、「痛みは比べることはできない」といった類の言葉があった。首相は次のように述べた。「公正な人道的かつ良心的姿勢をとれば、必然的に宗教や民族的起源に関わらずこの時代に起こった全ての痛みを理解するようになります。当然のことながら痛みのヒエラルキーが作られることも、痛みがお互いに比べられることや競わせられることも、痛みを受けた者にとっては意味をなしません。我々の祖先が言ったように「火は落ちたところを焼く[註:苦難の辛さがわかるのは当事者に近しい者だけであるという意]」のです。オスマン帝国のその他のすべての同胞と同様に、アルメニアの人々もその時代に経験した苦難の記憶を忘れないということを理解し、それを共有することは人類の責務です」

■2008年のアルメニアとの国交正常化に言及

エルドアン首相のメッセージにおける他の要素は、トルコが2008年に行ったアルメニアとの国交正常化に言及したことだ。2008年にアブドゥッラー・ギュル大統領によるサッカー試合のためのアルメニア訪問とともに始まった国交正常化プロセスは、トルコとアルメニアの間において、ジェノサイド(大量虐殺)という主張に関する調査委員会の立ち上げ、および様々な合同委員会設立に関する合意文書の調印という結果をもたらした。しかし、トルコもアルメニアも、双方の外務大臣が調印した2009年10月の合意文書を政治的理由で批准することはできていない。
トルコは、国土の3分の1がアルメニア占領下[註:ナゴルノ・カラバフのこと]となっているアゼルバイジャンの大きな圧力に直面する一方で、アルメニアも内政の動きやアルメニア・ディアスポラ(在外アルメニア人団体)の圧力によって、合意文書を批准できないでいる。

■「国交正常化プロセスを再開させよう」というメッセージ

エルドアン首相は、発表した声明の中で、2008年プロセスの結果において合意に至ったが、その後立ち消えとなった合同歴史委員会に言及し、アルメニアに「国交正常化プロセスを再開させましょう」というメッセージを送った。エルドアン首相は次のように述べた。
「今日の世界において、歴史から憎しみを取り出すことや新たな諍いを生み出すことは、それが認められることではないように、我々共通の未来の構築という観点からいかなる形においても有益ではありません。時代の精神は、意見の対立があっても対話できること、相手に耳を傾け理解しようとすること、合意への道を模索することを評価すること、憎悪を非難し敬意と寛容をたたえることを必要としています。こうした考え方で、我々はトルコ共和国として、1915年の出来事が学術的方法で調査されるための合同歴史委員会の設立を呼びかけました。この呼びかけは未だなお有効です。トルコ人やアルメニア人、各国の歴史学者たちが行う研究は、1915年の出来事が明らかにされ、また歴史が正しく理解されることにおいて重要な役割を果たすでしょう」

■声明の中で、「表現の自由」を強調

エルドアン首相の声明の中におけるもう一つの重要な要素は、表現の自由への言及である。
首相が1915年の出来事のために発表した声明の中で、表現の自由を特に強調したことは、長い間トルコで使用が禁止されていた「アルメニア・ジェノサイド」ということばを思い出させた。
首相は声明の中で、「1915年の出来事に関する異なる見方や考えが自由に表現されることは、多元主義的な視点や民主主義的文化、モダニティーが求めるものである」と述べ、表現の自由に言及した。
エルドアン首相は声明の中で次のように続けた。
「トルコにおけるこの自由な環境を、他人を非難し、傷つけ、さらに時には挑発するような発言や主張を行うための手段として見る者もいるでしょう。しかしながら、我々が歴史的問題を法的見解とともにより良く理解し、憤りをあらためて友情に変えることが可能となるならば、さまざまな発言が共感と寛容とともに受け入れられ、あらゆる方面から同様の理解が期待されることは当然のことです。トルコ共和国は、法の普遍的価値に合致したいかなる考えに対しても、『大人としての態度で』歩み寄り続けます」



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:安井 悠 )
( 記事ID:33599 )