Ahmet Hakanコラム:よくやった!ハーシム・クルチ憲法裁判所長官
2014年04月26日付 Hurriyet 紙

アフメト・ネジデド・セゼル元大統領は憲法裁判所長官だった。
セゼル氏は壇上で行った講演で、
・自由について
・民主主義について
・人権について
・世界標準について
語っていた。

2月28日、当時の国内標準を脱却すべく、我々はこれらの話題に必死で聴き入った。保守的な出版物には熱意あふれる見出しが打たれた。
『セゼル憲法裁判所長官の民主主義と自由に関するマニフェスト』
タイイプ・エルドアン首相も当時、セゼル氏の講演を聴いただろう。アブドゥッラー・ギュル現大統領も…。

そしてセゼル氏はいくらかのこの講演の影響力によって大統領に選ばれた。2月28日過程において憂き目を見た政治家たちもセゼル氏を支持した。

結果?
まったくの失望だった。
セゼル氏は大統領である間、自由、世界基準、民主主義や人権などのことは忘れてしまった。
眉をしかめて体制を傍観する人に成り下がった。
自由を演説した人物はどこかへ消えてしまい、辺鄙なところにあるアパルトマンに住み、スカーフを着けた妻を持ち、官僚を追う大統領が現れた。

後になって知ったことだが、憲法裁判所長官の肩書でアフメト・ネジデド・セゼルが行ったリベラルなスピーチの後には、当時の憲法裁判所のメンバー、ハーシム・クルチ氏の影響があった。文章はハーシム・クルチの手によるもので、セゼルはこれを読んだだけだったのだ。

ハーシム・クルチ氏の先日の演説を聴いているとき私は、アフメト・ネジデド・セゼル氏の行ったあのリベラルな講演を思い出した。
クルチ氏の演説を聞いて、セゼル氏の演説を聞いたときと同じ興奮を感じた。何のためらいもなく『ハーシム・クルチの民主主義、法と自由のマニフェスト』と見出しを書けるくらいの心境だったということだ。

 「セゼルが温めた牛乳で口を火傷しなかったから、ハーシム・クルチが作ったヨーグルトを冷ますことなく口にするのか?」とあなたは思うだろう。
私の答えは「ハーシム・クルチを私は完全に信用している」だ。

私はハーシム・クルチ氏を信じている。
なぜなら……
・セゼル氏が自身が持たなかった自由への出口を、ハーシム・クルチ氏は内に持ちながら作っている。
・さらに高い職にも就けるし、引退して家に引っ込むこともできる。クルチ氏が自由を混迷させ、政体を傍観するようなことはしないだろう。
・クルチ氏が正しいことを認める必要がある。彼は軍事後見の時代にも自由主義を守っていたし、今もなおそれを守っているのだ。
・クルチ氏は今日の政権に対し「体制の守護者」を自認して批判することはない。彼の主張の焦点にはただただ権利と自由だけがおかれている。
・クルチ氏の主張の背後には大統領になりたいという野望があると明確にわかるわけではない。大統領選挙がなかろうとクルチ氏はこのような主張をする性格の男である。

これらの理由から私は…「よくやった!ハーシム・クルチよ!」と言おう。
そしてこれを言ったことにより、まったく後悔しないだろうと確信している。


■ハーシム・クルチとはどんな人物か?についての9項目

①彼の妻はスカーフを着用している。
②トゥルグト・オザル元大統領によって現職に任命された。
③仕事をする過程で決して、段階的にでも自由に背くようなスタンスに立つことはない。
④政党解党裁判を始めとする多くの裁判で、反対の表明文を書いて自由を支持する姿勢を取った。
⑤軍後見時代、皆が妥協する中ためらわず自由主義の姿勢を取った。
⑥人権と自由についての方針がはっきりとしていてとても健全である。
⑦選挙で当選した人々の、法の枠内で政権に就く権利を維持し守っている。
⑧軍後見時代の態度が原因で、当時の権力者の反発を招いた。
⑨公正発展党政府とは、ただ個人の人権と自由において見解を異にしている。

■権力者たちからクルチ氏に対してありそうな反応

・彼はこれで正式に平行線になる。
・すぐに憲法裁判所廃止する法的取組を始めて欲しい。
・ハーシム・クルチは米国のペンシルバニアへ飛んだのか?ソーシャルメディアの勝手気ままなユーザーはこの問に答えてほしい。
・もしもブルハン・クズ氏が憲法裁判所の長官になっていたのなら、こんなことは絶対に起きなかったろう。
・我々が彼の法衣を悪くいっていたと、彼も我々のシャツを悪く言い出した、これはいいのか?
・我々の内の誰かにこの男のやったことを「クーデター」だと言ってほしい。
・朝食に心臓を食べたんじゃないか、この男は?

■唯一好ましく思わなかったこと

ハーシム・クルチ氏の話したことで私が気に入らなかった唯一の部分は以下のようなものだった。
「我々は公正であることを神聖な職務とする文明の一同胞として、権力と状態の影響を受けて服を替える性格の持ち主であることはない」
クルチ氏はこの発言により、エルドアン首相の「我々は『国民の視座』のシャツを脱ぎ捨てた。過ぎ去りしものは忘れなさい。我々は新しい政党なのだ」という説明を引用している。
この「シャツ」という言い方が、完璧な民主主義の出立に政治的な論争の雰囲気を加えたため、まったく気に入らなかった。

■これらの何がいけないのか?

クルチ氏はこう述べた。
「法の安全は、人々が鳩のような臆病さの中では生きていない、恐れのない環境があることとして定義されるだろう」
問おう。これの何がいけないのか?

またこうも述べた。
「法治国家の中心には基本的に、政治権力の独裁化の制限がある。このため、公権力を使う人々もまた国民のように法的原則により取り囲まれているのだ」
問おう。これの何がいけないのか?

こうも述べた。
「最近、司法は『パラレル国家』もしくは『強盗団』と呼ばれる恐ろしい非難に直面している。この非難の上に立たされている限りは、司法が崩れず立ち続けることは不可能だろう。皆がこの非難に関する知識や情報、証拠を明らかにせねばならない。この人たちを他の県へ任命しても問題は解決されない」
問おう。これの何がいけないのか?

こうも述べた。
「公権力をもつ人々が社会に与えた権利と自由を、恩赦や寄付ではかることは考えられない。異なる人々の権利と自由に対して誰も、家主のように振る舞うこともできない。7600万人全員がこの家の持ち主なのだから」
問おう。これの何がいけないのか?

■ハーシム・クルチ氏の私にとっての意味とは

救世主ではない。使命を負ったものでもない。反旗を翻すものではない。政治に敵対的でもない。旗の下に集まれと呼び込むわけでもない。彼個人のキャリアプランを高めようとしているわけでもない。政府を倒そうとしているわけでもない。向かい風を吹かすものでもない。

ただただ以下のようなものだ。
権威主義が制度化しようとしている今日の政府の方針に、法と自由と人権と世界基準を思い出させる勇気を見せる法律家なのだ。

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( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:33661 )