「ベルキン少年は自分の名前を息子に付けるように言ったのです」
2014年05月06日付 Radikal 紙


ゲズィ運動の渦中に頭に命中したガス弾により負傷し、昏睡状態が269日続いた後亡くなったベルキン・エルヴァン少年のために、アンタリヤからイスタンブルまで行進したグループのメンバーであるメフメト・アリ・ウーウルル氏は、新しく生まれた自分の息子をベルキン・エルヴァンとマヒル・ チャヤンの名前をとり、“ベルキン・マヒル”と名付けた。

イスタンブルにおけるゲズィ運動の渦中で家からパンを買うために外出中、頭に催涙ガス弾を受けて2013年6月16日に負傷し、2014年3月12日に亡くなったベルキン・エルヴァン少年のために、6人組みのグループはアンタリヤからイスタンブルまでの“正義の行進”を実現させた。アンタリヤ人民戦線のメフメト・アリ・ウーウルル氏、アフメト・ギュンドゥズ氏、ヨルダシュ・ギュネシュ氏、ビュレント・カラダシュ氏、ケチェル・チュルクカン氏、そしてデヴリム・ゾングル氏は、ベルキン・エルヴァン少年を撃った警官が裁きを受けること、罰せられることを目的として始めた行進の4日目に悲しい知らせ(ベルキン少年の死)を受けたが、それでもなお行進をやり遂げた。

850キロメートルに及ぶ行進は4月2日にフェリキョイ墓地にあるベルキン・エルヴァン少年の墓にやってきたときに完了し、そのときグループメンバーの一人であるメフメト・アリ・ウーウルル氏は妊娠していた妻が息子を出産したという知らせを受けた。以前に妻と一緒に、生まれてくる息子には“マヒル・チャヤン”という名前を付けることを考えていたこの夫婦は、この時ベルキン少年とマヒルの名前をこの子に付けた。

■850キロメートルの道中にベルキン少年のことを広めた

ベルキン少年が撃たれた後、トルコ中で「ベルキン少年を撃った者は裁かれよ、正義の前に引きずり出されよ」という呼びかけや運動が行われたことを指摘するメフメト・アリ・ウーウルル氏は、アンタリヤ人民戦線として「ベルキン少年を撃った者は正義の前に出て、裁かれよ」という要求とともに、アンタリヤからイスタンブルまで行進したと述べた。ウーウルル氏は以下のように述べた。

「出発するとき妻は妊娠していたのです。ベルキン少年の墓に私たちが来たとき、知らせがありました。“アッラーよ、父と母と一緒に育ちますように。あなたの子どもが生まれました”と言って喜びも悲しみも感じました。ベルキン少年は我々全国民の子どもです。彼の墓に行ったとき小さな玉とパチンコを置いてきました。罪の道具だと人々は言いました。この国で小さな玉とパチンコで遊ばない人がいるでしょうか?ここで私たちは二つの感情を経験しました。ベルキン少年が殉教者になったことを悲しむ一方で、彼は眠っている社会が眠っていないことを示してくれたのです。ベルキン少年は国のすべてを目覚めさせてくれました。正義を望む300万人の人々を葬儀に集め、正義を求める人たちのシンボルとなりました。私たちの息子の名はマヒル・チャヤンとするつもりでしたが、この行進を始めて息子誕生の知らせをまさにこの墓で受け取り、ベルキン少年は私の息子の名前に彼自身の名前を付けたのでしょう。私達にまるでこのようなメッセー ジをくれたようです。「おじさん、この子どもの名前は僕の名前にしてよ」というね。だから私たちはこの子にベルキンとマヒルの名を与えたのです」

■自然な成り行きだった

ベルキンと名づけられた子どもの母親であるセルダ・ウーウルルさんは、夫が、ベルキン・エルヴァン少年を撃った者たちが裁かれること、すなわち正義のために出発したこと、行進の最中に受け取った悲しい知らせが他の全ての人と同じように彼らを深く悲しませたと話した。セルダ・ウーウルルさんは以下のように述べた。「息子が生まれるとき父親に隣に居て欲しかったですが、彼らはとても大事な目的のために出発したのです。ベルキン少年のために行進に出たこと、ベルキン少年の墓で知らせを受けて子どもの名前をベルキンとすることは自然な成り行きだったのです。」

メフメト・アリ・ウーウルル氏はベルキン・エルヴァン少年を撃った人間が正義の前に引きずり出されて裁かれるまでは、毎週土曜日にトルコ全土で人民戦線として会見が行われることを述べた。ウーウルル氏は以下のように続けた。「ベルキン少年を撃った者たちが裁かれて罰せられるまで私たちの活動は続きます。」



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:小瀬康太郎 )
( 記事ID:33792 )