キサースは権利なり、赦しは甘美なり:キサース刑は犯罪再発の抑止のため(上)
2014年05月18日付 Jam-e Jam 紙


【社会部:マルヤム・ハッバーズ】キサース(同害報復刑)には二つの「顔」がある。一つは殺人を犯した者に向けられ、もう一つは殺された人に向けられている。一人の人間の命を奪ったのだから、殺人犯は罰せられねばならない。被害者の遺族たちも、被害者の血が無駄に流されたままで終わらぬよう、キサースを求める。目には目を、耳には耳を、命には命を、である。

 これは法律の文言であり、神の言葉でもある。キサースという〔イスラームの〕法規定は、人が他人に危害を加える気を起させないために制定されたものである。この法規定が定められたのは、もしも血が故意に流され、まったくもって信じられないことに、愛する人が家族から奪われてしまったならば、流された血に敬意を払って、〔その人の命を奪った〕殺人犯は人生に別れを告げるべきだという考えからである。また人の命を奪うことをたくらんでいる他の者たちへの戒めとするため、という目的もある。

 もちろん、殺人犯のすべてが、事前に殺人の計画を立てたわけではない。彼らの多くは、獄中で処刑の日に向けてカウントダウンをしているとき、殺人という結末を迎えた日の出来事を呪っている。それ〔=殺人〕は時として思いがけず犯してしまったものであったり、意地の張り合いの結果であったり、はたまた未熟さ、過度なプライド、愚かさが原因であったりする。つまりは悪意や前もっての意図以外のあらゆるものが、人を殺人者に作り変えてしまうことがあるのである。

 中には、何らかの状況下で困難に遭遇し、衝動にかられてしまう人もいる。そのようなとき、彼らは論理的に考えることができないために、手を被害者の血で染めてしまう。実際〔殺人を犯した〕人の多くが、被害者から自分の命や名誉を守るためだった、これに対して法律は正当防衛という名を与えているじゃないかと言い訳をする〔が、実際には彼らの行為は正当防衛というよりは、衝動的な殺人である〕。

 しかし、故意による殺人がどのような状況で発生しようとも、それは事件のもたらした結果とは無関係である。ある人の死が別の人の手によってもたらされた、という結果に違いはない。そしてそれに対する法律上ならびにシャリーア上の法規定は、同害報復(キサース)なのである。キサースを執行する目的とは、人の命をターゲットとする暴力行為が繰り返されることを防ぐことにある。

 もちろん、法律は遺族に二つの選択肢を残している。一つは、流された血の代償として、加害者の命を奪うことであり、もう一つは賠償金を受けとること、すなわち奪われた命と、ディーヤ(賠償金)の基準に従って計算されたその命の価値(値段)とを交換することである。

 殺人犯に対して最終的にキサース刑の判決が下るケースでは、多くの場合、遺族はキサースのみを求めるが、愛する者の命は失われたと考えて、殺人犯に報復しても愛する者は生き返らないという理由から、ディーヤを受け取り、キサースを放棄する人もいる。その場合、殺人犯は生き残って、自分の犯した罪に対する一般的刑罰、すなわち禁固刑に服すことになる。

つづく


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( 翻訳者:3413001 )
( 記事ID:33971 )