失業を恐れるソマ住民の沈黙
2014年05月25日付 Zaman 紙

ソマの悲劇ともいえる事故から10日が経過し、不祥事と不安だけが後に残された。事故後に[入口が]閉鎖された炭坑が過日再び開かれた。

しかしながら以前に比べ、需要が減少した炭鉱では10%の規模で仕事が再開された。労働者らは多くの不安、怒り、失望のために、地下に入らなかった、 というよりは入ることができなかった。初日、ソマ炭鉱会社所属のイムバット炭鉱で働く1500人の労働者のうち150人が交代勤務に訪れた。

郡のほとんどの住民は、この事故で命を失った人々が他にも存在すると考えている。ソマの巷では、名前は死者名簿には載っていないが、遺体が引き渡された遺族らがいること、そして遺族らに圧力がかけられ、話さないよう勧められたことがうわさされる。一部関係者によると、この事故が起こった初日、クルカアチにある冷凍庫に400人以上の遺体が搬送されたとされる。

人口10万5000人のソマの大部分は直接、間接的に炭鉱で働いている。農業や畜産業はほとんど行われていないソマや周辺の郡では、住民らはある種炭鉱で働かなければならない状態だ。タバコ生産に課された割り当てはこの部門の生産を中止させた。農業は一部は継続しているが、概ね廃業となった。石炭においても同じ状況である。国が操業権を賃借して運営される炭鉱から採掘された石炭へも割り当てが要求されている。そうでなければ、国は生産されるすべての石炭を一切問うことなく買い上げる。この事態も鉱山労働者らが昼夜問わず働かされたことになっている。都市の半分は炭鉱労働者で、もう半分もその鉱山労働者からのニーズを満たす小売り業者だ。人口の増加とともに、炭鉱業はエーゲ地方のこの小さな郡を、時とともに小売業者と炭坑夫の町へ変えてしまった。

炭鉱業が保障する限られた利益を利用したいと望み、採掘を生業とするソマの住民らは、以前同様、炭鉱の[仕事の]道を歩むことを強いられている。厳しい労働条件にも関わらず、1000から1800トルコリラで変動する月給で働く炭鉱労働者らにこの重荷を背負わせている大きな原因となっているのは、12年で定年となれることだ。失業の不安を抱える炭鉱労働者らは、事故や死者の発生毎に数日喪に服し、新たな事故が起こるのを知りつつも、炭鉱に入ることを続けてきた。現在、301人が死亡したと公表される事故を受け、彼らはトラウマ(心的外傷)や不安に襲われている。

市民団体が炭鉱労働者への援助を十分に行わなかったこともまた問題となった。国はおろか、炭鉱労働者らの人権を保護すべき労働組合でさえなかった。被害者らは、以前に生じた事故や様々な理由で解雇・離職されたことに対して支払われるべき補償を求めて、行脚している。一日仕事に行かない労働者が2日間の日給を減給されている。平均で1200トルコリラの給料を受け取っていた炭鉱労働者は、数日仕事に行くことができなければ、給料が700から800トルコリラまで減額される。

ソマの事故は後に残された数百人の孤児と癒えない傷跡とともに、国民に新たな不安を感じさせた。ソマの住民らが今最も憂慮しているのは失業だ。これに加え、彼らに対する補償を受け取ることができないと考える労働者らの家族にとって、炭鉱が長期間閉鎖されるという事実も懸念材料となっている。ソマの住民らは、重大な事故と[管理者側の]怠慢にも関わらず、政府や運営会社を批判することを躊躇している。それはソマの炭鉱労働者が、何らかの理由で炭鉱を解雇されれば、他の炭鉱で就職することが困難となるからである。さらにその後、困難に直面することを恐れている。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:星井菜月 )
( 記事ID:34006 )