ゲズィ事件から一年、職を辞した新聞記者たちのその後
2014年06月01日付 Milliyet 紙


ゲズイ事件から一年となった。どれほど多くの言葉をこの事件について積み重ねてきたか。何百もの修士・博士論文が書ける程である。最も多く主張されたことは、ソーシャルメディア、新たなコミュニケーションツールの力である。皆が事件について語ったが、事件から教訓を得る必要のある政府機関は、残念なことに未だにゲズィ事件を正しく分析できているとは言えない。

昨年のちょうどこの時期、メディアは、批判の的となっていた。批判は正しかった。しかし、その当時、 何人の新聞記者が失職したかまったく口端に上っていない。ゲズィ事件の取材時期から現在まで約100人の記者が職を失った。中心的メディアで意見を発信できない人々の一部は、今までの職業上の蓄積を共有するために、違った居場所を見つけた、大学のような。残念なことに長い間失業した者もいた。今日その記者たちに耳を傾けてみたい。

■アイシェヌル・アスラン(バフチェシェヒル大学教授、ユルト紙記者、ハルクTV)

ゲズィ事件は、リトマス試験紙のようであった。誰が、どの政党が、どの政治運動がどこに身を置き、何をしたいかをそれぞれ示した。若者以外の皆は、右左の立場を守って舞台に上がった。クルド人は、「花や木、色の白いトルコ人と何の用があるのか」と述べているようだった。彼らがディヤルバクルで1年に10回は示すパフォーマンスを、ゲズィ事件では示さなかった。ゲズィ事件は、共和人民党にとって型通りの衣装であった。しかし、共和人民党の執行部は、 「中央執行部会に諮ろうか」とばかりに考えて、端に留まっていた。勇気の歴史が記録された広場で勇気のなさはいつも以上に露呈した。「反資本主義ムスリム」団体は、自分の立場を表明した。左派諸組織は、いくつのグループがあるのかという問いに回答するために、ばらばらに居並んだ。メディアは全く驚かせなかったが、社長たちは子飼の者たちから叱られるととても驚いた。少なくともアメリカの民主主義を見てきた子供たちのおかげで、私たちは僅かばかりの情報を目にした。私は昔ほど駆け回ることができないために、ゲズィ事件では端にいた。CNNトルコから追われた。しかし、全局は私の物であった。 もちろん、私を招待するほどの「周縁の」局について述べている。当時について私の記憶に残っているのは、60代の髪の毛が真っ白な友にゲズィにいた何人かの若者が、「がんばれおばさん、すごいじゃん。ここにいるんだね」と述べたことである。彼女も言った。「そもそも私はいつもこんなところにいるよ、若いの。あんたこそすごいね。ここに来たんだから。」つまり、ゲズィ事件には、私たち皆がいたし、いなかった。いたことも、いないことも。自分たちが何で、誰で、どんな風なのかを語った。

■アフメト・シュク(ビルギ大学コミュニケーション学部教授)

ゲズィ事件で殺された子供たちがアレヴィー派であったことは、私の脳裏に「特別に彼らが選ばれたのか」という問いを浮かべたが、そうは考えない。しかし、最近、オクメイダンで警察がその手の人々を標的としているとは確信している。アレヴィー派は、システムの全ての荷を引っ張る、そのゆえに既存秩序の反対者の一つなのだ。

彼らは、いつの時代もこの種の反対運動の中にあった。オクメイダン、サルガズィのような地区で生活している貧困にあえぐ人々は、政府にとって常に敵でなければならない。敵はまずはクーデター画策者、エルゲネコン、その後は[ギュレン]教団で、現在はアレヴィー派である。政府のグループ対策は、今に始まったものではない。2007年から、司法界ではアレヴィー派の裁判官と検事はたった一人しか任命されていない。 1980年代から現在までアレヴィー派が標的となることがとても多かった時代を生きてきた。政府は革命的人民解放党戦線とはアレヴィー組織だと述べている。この種の組織がアレヴィー派を国に対して焚き付けよう彼らがたくさん暮らしていた場所で組織を作っているとは考えていない。そもそも、組織はこのほうが仕事がしやすいからそうしているのである。

■正しい言葉で行われた市民デモ

1周年でわかるのは、ゲズィの理由となった要因が増え続けているということである。この国は第二のゲズィ事件を胚胎しており、再発した時には事件の結末を予想できない。ゲズィ事件によって崩れた恐怖の壁が一層強固に覆い隠されようとしている。通りに出た人の頭をガス弾によって攻撃し、殺している。良くて逮捕である。ゲズィ事件は、真っ当なことを口にして生じた市民の反抗である。しかし、未組織で、政党と関わらず、党派性のないこの人びとは、一つの傘の中に収まることができなかった。

■クトゥル・エセンデミル(廃刊したカルシュ紙の最後の編集長)

私は、イスタンブルのベイオールの出身である。ジハンギル出身である。2013年5月28日まで毎日ゲズィ公園を通って職場に通う一新聞記者だった。抵抗が始まった際に毎日家と職場を往復する際のことだった。スラセルビレル通りで6月1日夕方、警察の暴力で頭と目を負傷した20人近くの人々をタクスィム救急病院に叫び声を挙げながら搬送する中、翌日私が働いていた新聞のページで 「タクスィムで事件。3人の負傷者のうち二人は警官」というニュースを目にしたことが、私個人の新たな抵抗の出発点となった。「何をすべきか自分自身わからなかったが、何をしていけないかはわかっている」と述べて、新聞記者を辞めた。

それから1年が過ぎた。トルコが世界に貢献した誉れ高い日々の1周年が訪れて来た。ゲズィの抵抗は、一つの進歩であり、これが進んだ時期に自前のコミュニケーションツールを生むだろう。これを大いに信じている。私たちは、[このことを]カルシュ紙で試した。そして成功しなかった。刷新してさらに大きな成功を収めるだろう。多くの同僚が、失業し、不当な目に遭い、ひもじく、あるいは、私のように帯状疱疹を患っている現在、私の最後の言葉は次の通りである。「催涙ガス、上等だ。」

■国会記者の歴史的教訓

「トルコの最も著名な書き手と詩人が人々の投票によって選ばれた国会議員の口から、どのように罵られたかを語る一連の証明書」と本の紹介文でも書いた。読むたびにテュレイ・コシャイがどれほど重要な仕事をおこなったのかがよく伝わってくる。20年を超える期間国会記者を務める、ジュムフーリイェット紙の価値ある記者のコシャイは、『文学をめちゃくちゃにした演説』(イムゲ出版)をよくぞ書いた。「書物を焼け」と言う者、「くたばれ赤の詩人」と口にする者も彼の本の中に現れる。レベルが地に堕ちた議会から歴史の教訓となるよう書かれたこの文章は、恐らく自らを正すことにつながろう。希望だ。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:34138 )