オルホン碑文コピー、トルコ世界文化公園に―でも間違いだらけ
2014年06月21日付 Yeni Safak 紙


オルホン碑文のレプリカが、イスタンブル広域市によってトルコ世界文化公園に移された。アフメト・タシャーウル教授は、オルホン碑文はトルコだけのものではなく、全世界のトルコ人たちの共通の宝であると話す。

オルホン碑文は、宰相トニュククの2つの石碑を含む、4つの石碑から成り立つトルコ人の歴史において最も古い文書である。1300年前にキュル・テギンとビルゲ・カガンの名のもとに彫られた碑文上には、トルコ人の統治者たちが未来の世代に伝えた助言と戒めが書かれている。1889年に初めてモンゴルで発見された碑文は、先週キュルテュル社によってトルコ世界文化公園に置かれた宝の数々とともに建てられた。我々もミマール・スィナン大学の歴史学部長アフメト・タシャーウル氏とともに碑文の建てられた場所を訪れた。

(以下、タシャーウル教授とのインタヴュー)

-アンカラとメルスィンをはじめとして、トルコのいくつかの場所でさらなるオルホン碑文のレプリカが作られ、最近ではトルコ世界文化公園に建てられました。この碑文が今日我々に伝えるものとは何なのでしょうか?

「誰がなんと言おうと、今日、1つのトルコ人世界がある。トルコ人の歴史もユーラシア大陸の広大な草原で発展して、その後3つの大陸に広まった。これは世界史の否定しがたい真実だ。トルコ人の歴史はいつも全体の中で取り扱われる必要がある。ユーラシアのトルコ人の歴史が通過したすべての場所に、数多くの碑文や価値ある文化的な作品が存在している。しかし、その文化的豊かさの礎は、オルホン碑文に基づいている。他国の羨望の的であるオルホン碑文のレプリカがトルコにて建てられたが、遅すぎた。今から7,80年以上前に建てられる必要があった。しかしそれにしても最近トルコのいくつかの場所に建てられたことは喜ばしいことである。オルホン碑文はトルコ国民のもっとも重要な象徴の一つでもある。この碑文がトルコ世界文化公園に建てられることはとても重要なのだ。」

■我々共通の価値

-ここの文字はマナト(通貨)の上にもありますが…

「なぜならトルコ共和国のトルコ人だけのものでなく、すべてのトルコ人世界に共通の価値があるからだ。チュルク汗国(突厥)の時代に全トルコ人が一つにまとまって一つの国家の下に集うことが出来た。この国家の時代にもオルホン碑文が建てられた。ここを訪れる若い世代は、歴史の奥深さのなかで彼らの祖先が碑文を作り出したこと、非常に流暢で豊かなトルコ語を使用していたこと、国の統治、社会の未来、民族的アイデンティティに関して解釈を行っていたこと、統治者と国民の責務が何であったのかを学ぶだろう。少なくとも自身の歴史がどれだけ深く、豊かであるか気づくことだろう。イスタンブル広域市とその関連企業であるキュルテュル社を始めとしてこれらの製作に尽力したすべての人をお祝いする必要がある。」

■間違って書かれているようだ

-しかし中国語の部分が間違って書かれていると(教授は)話されましたが…

「そう、これまで私は知らなかったが、今ここで確認した。これを明らかにしておくが、しかし最新の分析で、このトルコ世界文化公園に、しかも特にオルホン碑文のレプリカがここに建てられたことがとても価値のある活動であることもまた明らかにしておこう。中国語の部分の構文に間違いがある。単語にも間違いがある。」

-この場所での設置の仕方はどうですか?

「そう、そこも間違いがある。これらは前面が東を向いている必要があった。ここでは完全に反対を向いているようだ。しかしこの場所に従ってそうしたのかもしれない。また亀はこれほどはっきりした形ではない。元の場所ではより荒削りな形である。」

-オルホン碑文に関して我々に何を話してくれますか?

「オルホン碑文は、モンゴルの首都ウランバートルから約500km西にあるオルホン川の小さな支流の近くにある。このことからオルホン碑文と呼ばれている。とても近いところにホショ・ツァイダム湖がある。ある研究者たちはこれらをホショ・ツァイダム碑文とも呼んでいる。」

■すべての石碑の上に1000年間の助言がある

-碑文から突厥もしくはトルコ人の歴史に関連して何を学ぶことが出来るでしょうか?

「碑文上でわかるように、まず世界の成り立ちを、そして人類の創出を教えている。」

-すなわち以後の世代のための呼びかけもなされている、と。

「もちろん。どこへも行くな、ここに住めと言っている。行くなと言う場所は中国だ。ぜなら中国に行く者は滅びるからだ。キュル・テギンを偲んで今日の意味で言う、複合体(キュッリイェ)をつくらせたことがわかる。」

-すなわちただ今日まで残った石碑が建てられていたわけではないと…。

「もちろん。複合的なものだ。(碑文の周囲にあった)壁にはキュル・テギンの戦争の光景が描写されていた。今日我々の手に残るものはその複合体から残ったものだ。」

-碑文の三つの面の上にトルコ語が書かれていて、残る一面に中国語の文字がある。

「731年に死んだキュル・テギンを偲び、(碑文は)兄であるビルゲ・カガンによって732年8月に建てられている。これらの中国語の面が何故重要なのか?なぜなら中国語が彫られた面上には建てられた時間も書いてあるからだ(注1)。ほら、日付が書いてあって、しかも建てられた時間もある。732年の8月のうちで午後1時から3時の間だ。この点において中国語の彫られた面は重要である…中国語の面においてはトルコ人と中国の友好と世界の創造とともにキュル・テギンの偉業が説明されている。トルコ語が彫られた面には似たような形で、世界と人類の創造で始まり、ビルゲ・カガンの祖先であるブミン(伊利可汗)とイステミ・ヤブグ(室点蜜)の生涯とともに伝えるべきことを記している。要は、ここでは突厥の歴史において552年に独立を勝ち取ったことと、中央アジアでの繁栄を伝えている。そして国がどのように崩壊したか、中国人たちの陰謀と国民の国への不服従が説明されている。ここでよろしければ、重要な事柄を強調しておこう。多くの人々が言及してきたようにこの碑文上には、ほんの些細な人種差別主義も見受けられないということだ。」

-碑文群のいくつかは亀の基礎の上に立っているようですが、亀の古代トルコ人における意味とは何でしょうか?

「亀は仏教と中国の象徴の一つだ(注2)。その長い寿命から永遠を表している。このために亀の基礎の上に建てられた。中国で650年代に始まった碑文を建てる伝統で明らかに見受けられる。ビルゲ・カガンに、中国人たちは非常に熟練した、重要な職人たちのうちの11人を送った。彼らは碑文の周囲に石造りの建物(建築複合体)を作り石碑を建てることに貢献してきた。しかしトルコ語碑文はヨルルグ・テギンが書いた。」

■チュルクの名が最初に載った文章

-歴史上で「チュルク(Türk)」が最初に見受けられる場所や文章であると言われています。我々にとっての重要性や碑文が述べていることの意味を明らかにするとしたら?…

「オルホン碑文はチュルクの名が最初に見られるトルコ語文書である。ただしチュルクという名称は国民や国の名として紀元後420年以降はサーサーン朝、582年以降はビザンツ、600年代はアラブの資料で使われていた。中国の資料ではというと、542年以降記録されていた。現在中央アジアの広い地域に存在しているルーン文字碑文の数は日を追うごとに増えてきている。おそらくより以前の日付の碑文もあるだろう。あるいはチュルクという名がそれら碑文にも書かれているかもしれない。しかし、今のところはオルホン碑文とトニュクク碑文だというわけです。731年に死んだ弟のキュル・テギンのために兄ビルゲ・カガンによって732年に初めの碑文が建てられた。2番目の碑文は734年に死んだビルゲ・カガンの名において、息子によって735年に建てられた。(その2つの)碑文の間は890m離れている。トニュクク碑文はというと727年以前に建てられたと推測されている。」

-石碑はモンゴルで1889年に発見されるまで歴史の中でこのように留まっていました。石碑が建てられた場所に関しては何が言えるでしょうか?

「オルホン碑文は現在においても古き時代においても生活空間から遠くはなかった。草原はトルコ人文化の重要な時代の舞台となったモンゴルで、一番生活しやすい場所だ。セレンガ川、タムル川、オルホン川とこれらの川の小さな支流がある場所である。環境によっては一番豊かな場所と言える。 しかし一般的な意味で、モンゴルがいつの時代も生活するためには難しい地理的な場所であることは強調する必要がある。」

■トルコ人の歴史で最も重要な碑文上での製作間違い

イスタンブル広域市がオルホン石碑のレプリカを、トプカプ・トルコ世界文化公園に移したということで、ミマール・スィナン大学の歴史学部長のアフメト・タシャーウル教授とともに回った公園で、オルホン石碑が模造された間に生じた間違いにも我々は気づいた。タシャーウル教授が明らかにしたことによると、碑文の中国語部分が全体的に間違っているという。間違いは簡単な植字と単語の間違いから発生している。また建造においても間違いがある。これについて、広域市当局で我々に会ってくれた関係者は、間違いは以前に国外へもオルホン石碑のレプリカを送った製造会社から発生したものだと明かす。この会社の関係者は間違いは模造する間に発生したものだと話している。トルコ人の歴史上初の碑文は今、文化公園で間違った状態のままであり、対応が待たれている。

■TİKAが屋内博物館に運んだ方がよかった

-オルホン石碑のためにトルコ協力開発機構(TİKA)によって環境整備がおこなわれ、石碑が博物館に移送されることに関し一度議論が持ち上がった。1300年にわたって自然の中でむき出しの状態で存在していた石碑は屋根のある場所では、より早く壊れてしまうと主張された。

「このような主張は未だにある。私は(石碑の)移送と、博物館の建設が有益であると、さらにはトルコ共和国がこの計画を支援することが我が国の視点からとても重要であると考えている。もともと考えてみれば、自然な状態でも碑文はかなり傷ついていた。保護することに関しては、専門家の友人ユクセル・デデ氏がこの分野に最も精通している。ここには博物館が建てられて、毎年夏に多くの来館者が訪れている。将来の世代にきちんとした形で伝えるためには(博物館への移送は)有益と私は考えている。他の石碑や碑文の保護も可能になるといいが。」

注1:建てられた時間が書いてあればなぜ重要なのか理解不能だが
・このような大きな石であれば、まず文章を彫り終えてから建てるはずなので、正確な時間が書かれている可能性は低い。
・そもそも碑文に時刻を彫る習慣は聞いたことがない。
・漢文面の最後には「丁未」という干支が見られるようだが、時刻に用いられるのは干支ではなく十二支である。
「未の刻」は確かに13-15時を指すが、「丁未」は当該の日の干支であって時刻とは考えられない。

以上により、建てられた時間が書かれているという主張には従えない。

注2:亀は仏教の象徴ではないし、そもそもこの碑文自体に仏教的な要素は見られない。
ここで仏教云々を指摘することには何の意味もない。

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( 翻訳者:伊藤梓子 )
( 記事ID:34402 )