フライ教授の夢、灰となる
2014年06月24日付 Iran 紙

 アメリカ人イラン学者のリチャード・フライの遺体が荼毘に付された。これで、彼の愛した街エスファハーンに埋めてほしいという彼の遺言状が現実のものとなることは、もはや期待できなくなってしまった。

 アメリカ人イラン学者リチャード・ネルソン・フライがアメリカ・ボストンで94年の生涯を閉じたのは、2014年3月27日のことだった。彼は何年も前から、死んだらエスファハーンにあるザーヤンデルード川のほとりに埋めてほしいと遺言していた。しかし、当時のイラン大統領2人がこの願いに同意していたにもかかわらず、彼の死後に起きた出来事〔※〕が原因で、埋葬のために彼の遺体がイランに運ばれることはなかった。そして少し前のこと、彼の遺体はボストン市で火葬された。

※訳注:一部のイラン国会議員が、フライは生前アメリカのスパイだったと主張し、彼がイランで埋葬されることに強く反対したことを指す。

 アメリカにおけるフライ教授のイラン人同僚の一人で、アメリカ・カリフォルニア大学アーバイン校教授(イランおよびペルシア語社会史)のトゥーラジ・ダリヤーイー博士は、フライの遺体が火葬されたとの情報を確認した上で、イラン学生通信に次のように述べた。

2週間前、イラン学者であるフライ教授の家族は、彼をイランに埋葬してもよいという許可がイランから伝えられるのを73日間にわたって待った挙げ句、彼の遺体を火葬した。しかし彼の遺灰をどうするつもりなのかは、今のところ私には分からない。

 リチャード・ネルソン・フライは少年時代、歴史物語を読んで、東洋とその歴史に興味を抱いた。そのため、彼はイリノイ大学で哲学を学ぶ傍ら、歴史学も勉強し、アラビア語とトルコ語、そしてイスラーム芸術を学んだ。

 彼はその後、アルバート・オルムステッドと知り合い、〔シカゴ大学の〕東洋研究所がペルセポリスで行った新たな発掘の数々に関する彼の話に魅せられて、この分野での勉強をスタートさせた。中国学や中国や日本の古代史を学んだ時期を経て、ペンシルヴァニア大学から博士号を取得していたモハンマド・サムサールのもとで、ペルシア語を学んだ。

 フライは彼の助けを得て、ナルシャヒーの『ブハラ史』を翻訳、これが彼のハーバード大学での博士論文になった。彼は1943年から44年にかけて、イランやアフガニスタン、インドを旅し、この旅で古代の遺物に大いに関心を抱いた。

 フライは1948年から1990年まで、ハーバード大学学術委員を務め、イラン(シーラーズ)をはじめとするさまざまな国で、客員教授として教鞭を取った。

 フライは2001年から2010年まで、「ペルシア湾オンライン」の名誉会員を務め、その間つねに〔歴史の〕歪曲者たちに向けて書簡を発表、「ペルシア湾」の名称を擁護した。

 フライはイラン文明やイラン人に関して多くの著作をものした。その中には『ブハラ史』『イランの古代遺産』『イラン文化の黄金期』『イラン古代史』などがある。

 フライのイラン埋葬問題は、彼の遺体が火葬されたことで、恐らく幕を閉じることとなるだろう。しかし自分の約束を実行に移さなかったイラン人当局者たち、イランを知り、イランを紹介することに生涯の多くを費やした人物の最後の願いを実現させなかったイラン人当局者たちの不義理をめぐる問題は、いまだ幕が開いたままなのである。

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( 翻訳者:ペルシア語記事翻訳班 )
( 記事ID:34547 )