歴代トルコ大統領はどのように選ばれた
2014年07月06日付 Milliyet 紙

■ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1923年10月29日から1938年11月10日)
トルコ共和国の宣言から死ぬまで

1923年9月29日、トルコ共和国が宣言された日の夜、20時45分に大統領選挙が行われた。287人定員の議会で、過半数は144人であった。投票に参加した158人全員の票を得てムスタファ・ケマルは、トルコ共和国の最初の大統領に選ばれた。この選挙は、1921年憲法に基づいて行われた。

第2回大統領選挙はというと、1927年の総選挙後の11月1日に行われた。議会の定員は316人で過半数は159人であった。ムスタファ・ケマルは、 投票に参加した288人全員の票を得た。このように最初の投票で二期目の大統領に選出された。アタテュルクの三期目の大統領選出はというと、1931年であった。1931年の総選挙の後、5月4日に行われた大統領選挙で投票に参加した289人全員の票を得た。

1935年2月8日の総選挙の後、3月1日に行われた大統領選挙において、議会の定数は399人であり、選挙には386人が参加した。ムスタファ・ケマルは、全員の票を得て四期目の大統領に選出された。

■イスメト・イノニュ (任期1938.11.11- 1950.5.22)
隠遁中に大統領に選出

1938年にムスタファ・ケマル・アタテュルクが死去すると、TBMMは翌日会議を招集し、大統領にイスメト・イノニュを選出した。晩年のアタテュルクとイノニュの間には距離があった。アタテュルクが死去した際、首相の座にはジェラル・バヤルが就いていた。アタテュルクの側近の一部のグループは、イノニュが大統領となることに反対していた。大統領の座にはイノニュのほかに3人の名前が挙げられていた。参謀総長フェヴズィ・チャクマク元帥、ジェラル・バヤル、内務大臣シュクリュ・カヤだ。チャクマクとバヤルは大統領に立候補しなかった。イノニュは実は、隠遁生活を送っている時期に大統領に選出されたのだ。
この選挙で議会の総数は399、絶対多数は200だった。11月11日に議会で行われた選挙に寄って、イノニュは投票に参加した348名全員の票を獲得し、トルコ共和国の第2代大統領となった。次の選挙でも再選し、1950年まで大統領を務めた。

ライバル:フェヴズィ・チャクマク元帥

イノニュが4度目に選出された1946年の選挙は、それまでとは異なるものだった。
8月5日の大統領選挙は初めて複数政党によって行われていた。イノニュは投票に参加した451人の議員のうち388人の票を獲得し、大統領となった。フェヴズィ・チャクマク元帥は、59票に留まった。民主党(DP)所属のユスフ・ケマル・テンギルシェンクには、2票が投じられた。

■ジェラル・バヤル(1950.5.22-1960.5.27)
DP議員は立ち上がらず、CHP議員は拍手せず

1950年5月14日、トルコ政治における新たな時代が始まった。選挙で55.2%の票を獲得した民主党(DP)が、選挙制度によって得票率をはるかに上回る議員を排出した。487人の国会議員のうち416人はDP所属だった。同年、DPのナンバー1の創設者であるジェラル・バヤルは、387票を獲得して大統領に選出された。バヤルが選出後議会に入る際、奇妙な状況が起こった。DP議員たちは、1946年の選挙後イノニュが本会議に入る際、起立しなかったのだが、この時CHP議員は政府の慣習に従って起立したものの、拍手はしなかった。1954年と1957年の選挙の後行われた2度の大統領選挙でも、バヤルが大統領に選出された。

官邸から降ろされた大統領

1960年5月27日、軍事クーデターが起こった。クーデターを行った者たちの目的の1つは、チャンカヤ大統領官邸であった。逮捕を拒んだジェラル・バヤルは手荒な扱いを受け、軍用車に乗せられ士官学校に連行された。独立戦争の勝利の将軍であり、アタテュルクの首相であり、勧業銀行の伝説的な創設者は、官邸から無理やり降ろされた最初の大統領として歴史に名を残した。
1961年9月15日、ヤッスアダ(島)の裁判所で死刑判決が下されたが年齢を考慮して終身刑に減刑され、1964年11月4日、病死した。1966年7月7日には、当時の大統領ジェヴデト・スナイによって恩赦を受けた。クーデター派ですら、国民闘争に参加し、アタテュルクによって首相に任命された人物を絞首刑に処することはできなかった。

■ジェマル・ギュルセル(1960.5.27-1966.5.28)
「パシャに歯向かう他の立候補者は断じて認められない」

1960年5月27日に実行された軍事クーデターの直後、MBK(政治権力を手にした国民統一委員会)の筆頭にジェマル・ギュルセルが据えられた。5月28日、政府のトップ、トルコ国軍総司令官、国防大臣の座につけられ、新たな政府を組織した。
クーデター後初の大統領選挙は1961年10月26日に行われた。ギュルセルの軍内部での名は「アー・ジェマル」だった。AP議員のアリ・フアト・バシュギル教授の立候補はバランスを揺るがせた。ヒクメト・オズデミルの「国家の危機」という本に記された情報によると、アリ・フアト・バシュギルは夕方首相官邸に招かれた。招待したのはファフリ・オズディレク大将とストク・ウライ大将だった。ウライは、はっきりとしたメッセージを伝えた。「あなたの立候補は断じて認められない。」ファフリ・オズディレクも、暗殺の可能性を「我々はあなたに対して軍事政府から受けた命令を称賛している。受け入れないことはあなたに属する。しかし受け入れなければ命の保証はできない。これを伝えておこう」とはっきりと述べた。

明け方アンカラから逃走

バシュギルは、その夜の朝の5時15分頃、タクシーでアンカラからイスタンブルに向けて出発した。立候補を撤回するだけでなく、元老院議員職も辞した。議会の投票に607人が参加し、434票を獲得したギュルセルは、最初の投票で2/3の過半数を獲得し、大統領に選出された。

■ジェヴデト・スナイ(1966.3.28-1973.3.28)
参謀本部から官邸への伝統の始まり

ギュルセルは1966年3月25日、昏睡状態に陥った。診断結果を受けて議会は大統領選の決定を下した。
1966年3月28日に行われた選挙では532人が投票に参加し、ジェヴデト・スナイが最初の投票で2/3の過半数を獲得し、461票で選出された。アルパスラン・チュルケシュには11票が投じられた。スナイは、参謀総長から大統領になった最初の司令官となった。こうして、軍の監督下で参謀本部から官邸への道はその後も伝統となるだろうと思われた。

■ファフリ・コルチュルク(1973.4.6-1980.4.6)
デミレルとエジェヴィトの抵抗のおかげで…

スナイの在任期間は1973年3月28日に満了しようとしていた。3月27日の新たにつくられた国家におけるパワーバランスの中で、新たな伝統、大統領が参謀総長を経験した軍人によって選ばれるという伝統が作られ始めていた。当時の参謀総長、ファールク・ギュルレル大将の意図は、スナイの次の大統領となることだった。1973年3月5日に辞表を出し、参謀総長を辞した。スナイ大統領は、ギュルレルを、大統領によって選ばれる元老院議員に任命した。こうして、ギュルレルが大統領候補となるための道が開かれた。

破られる参謀本部から官邸への伝統

3月13日、議会で行われた最初の投票は、制服組が支配していた。一部の士官は議会の廊下でエジェヴィトを肩で押しのけた。しかし当時のAPPEALS党首スレイマン・デミレルとCHP党首ビュレント・エジェヴィトの抵抗によって、ギュルレルの大統領選出は妨げられた。こうして、作られ始めた参謀本部から官邸への進出という伝統は破られていた。ギュルレルは、選挙で175票しか獲得できなかった。ギュルレルの落選がわかると、スナイの大統領任期延長がとりざたされた。しかし、これを可能にする憲法改正は議会で1票差で否決された。
結局、大統領に任命された元老院議員であった退役海軍中将ファフリ・コルチュルクについて交渉がもたれた。コルチュルクは、1973年4月6日付けで大統領に選出された。最終投票ではコルチュルクに365票、ギュルレルに87票が投じられた。

■ケナン・エブレン(1982年10月9日から1989年10月9日)
アジダ・ペッカンも候補者となった。

コルテュルク大統領の任期は、1980年3月23日で終わった。しかし、議会は115回の投票にもかかわらず、大統領を選出できなかった。選挙は悲喜劇的な状態を呈した。投票用紙に歌手のアジダ・ペッカンの名前を書いた議員もいた。クルド人政治家の重要な人物の一人であるマルディン選出の国会議員ヌレッティン・ユルマ ズは候補となり、80票を得た。1980年6月12日に発生したクーデターの理由でもあったこの状況、議会が大統領を選べなかったことだ。

偉大なる大統領はトイレを掃除してください

80票を得たヌレッティン・ユルマズは、クーデターの後、ディヤルバクル刑務所に送られた時に、「クルディスタンの大統領が来た」という皮肉で迎えられた。下水で満たされた独房で拷問を受けた。「偉大なる大統領はトイレを掃除してください」とからかわれた。クーデター後、1982年11月2日に憲法の国民投票が行われた。ケナン・エブレンは、国民投票の結果、信任された憲法にある暫定条項のにより大統領に選出された。このように、初めて議会によって 選出されない大統領が誕生した。

■トゥルグト・オザル (1989/11/9 - 1993/4/17)
チャンカヤのデブ

エブレンの後、1989年10月31日に大統領選挙が行われた。議会の定員は450人で3分の2以上は300人、過半数は226人であった。トゥルグト・オザルは、3度目の投票で過半数を得て、祖国党国会議員の投票によって大統領に選出された。正道党の党首スレイマン・デミレルと社会民主人民党の党首エルダル・イノニュは、オザルの大統領官邸入りに厳しく反対した。野党は、オザルに「チャンカヤ官邸のデブ」というあだ名をつけた。祖国党党首に選ばれたメスト・ユルマズが首相になると、オザルは異議を唱えた。オザルは、大統領を辞任して、新たな政党を結成する計画をしていた。しかし、これには命が足りなかった。

19年後墓が開けられた。

オザルに首相時代に祖国党の会議で暗殺されそうになった。大統領時代の急死にも疑問は持ち上がった。国家監査委員会の2012年の報告書で、死因に疑問が掲げられ、検視が要請された。これを受けてオザルの墓が19年ぶりに開けられた。墓を開けたものは驚いた。オザルの遺体の大部分は損壊していなかった。法医学者セヴィル・アタソイ教授は、これを脂肪組織と結びつけた。採取された組織への分析によって作成された報告書では、「オザルが毒殺されたという点で決定的な証拠は見つからなかった」と書かれていた。

■スレイマン・デミレル (1993/5/16 - 2000/5//16)
何年も戦った左派の支持により選出された

オザルが亡くなると、首相スレイマン・デミレルが大統領の候補者となった。デミレルは、何年間も衝突してきた共和人民党の後継政党である社会民主人民党の支持によって大統領に選出された。1993年5月16日に3回目の投票で244票の得票によって大統領に選出された。

「チルレルが女性でなかったら窓から突き落としていた」

デミレルが大統領になると、父と娘のような関係であり、政界に送り込んだ政治家にうちの一人で、当時の首相タンス・チルレルとの関係は壊れた。ファルク・ビル ディルジは、『仮面の女』という著書で、この父と娘のけんかを次のように描写した。「チルレルは、国務大臣ミュニフ・イスラムオールと連れ立って大統領官邸にやってきた。デミレルに選挙法に拒否権を行使しないように要望した。説得できないとみると、イスラムオールに向かって、「大統領と二人で話をさせてもらえるか」と尋ねた。イスラムオールが外に出た後、チルレルはデミレルに向かって、『あなたは、私たちが選挙で負けるようつとめている。しかし、この法律を否決したならば、私もあなたの任期について取り上げる。任期を短くするように力を尽くす』と述べた。怒ったデミレルは、『私は、不法なことはできない。外に出なさい』と述べた。チルレルは何が起こっているのかわからなかった。別れの挨拶さえせずに部屋から出た。イスラムオールと共に首相官邸に向かった。チルレルが前で、 イスラムオールが後ろで急いで門を入った。サロンに来るやいなや、チルレルは泣き出した。イスラムオールは、翌日、大統領に電話して、別れを告げずに帰ったことを丁重に謝罪し、会合の後に起こったことを説明した。デミレルもチルレルが彼を脅迫したことを説明した。怒りを何とか抑えた。『ドクター、私の前でこのような振舞いをした人が女性でなかったら、窓から突き落としていただろう』と述べた。」

■アフメト・ネジュデト・セゼル(2000年5月16日から2007年8月28日)
5人の党首の合意で選出された

2000年に任期を終えたデミレルの目論みは、5年二期の形で再び大統領に戻ることであった。しかし、議会で「策謀中の策謀」とされた舞台裏での[取引]の結果、憲法改正は成立しなかった。デミレルは、自宅のギュニズ通りに戻った。1973年には支持されなかった[1973年当時の憲法裁判所長官]ムヒッティン・タイランのように裁判所長官を大統領とする形をエジェビットが試みたことを受け、2000年に実現した。民主左派党、民族主義者行動党、祖国党、正道党美徳党は、憲法裁判所長官アフメット・ネジュデト・セゼルで一本化した。セゼルは、5人の党首の署名によって大統領候補者となり、2000年5月5日に3回目の投票で330票を得て大統領に選出された。

本を投げると、大きな経済危機が起きた

セゼルの指名から選出において最も影響力があったのは、当時の首相ビュレント・エジェビットであった。セゼルは、2001年に国家安全保障評議会において、エジェビットに憲法の本を投げた。エジェビットは、会議を後にし、記者会見をした。この会見に続いて株価は暴落し、外貨は驚くほど上がった。大きな経済危機が始まった。

■アブドゥッラー・ギュル(2007年8月28日から)
最も難しい選挙の過程

セゼルの任期満了の1カ月前、2007年4月16日、大統領選挙の過程が始まった。公正発展党党首で首相のレジェプ・タイイプ・エルドアンは、候補者がアブドゥラー・ギュルであることを2007年4月23日に明らかにした。議会の定員は550人であり、367人が3分の2以上で、過半数が276人であっ た。公正発展党の議員数は363人であった。ギュルは、3回目の投票ですんなりと選出された。しかし、最高裁名誉長官サビフ・カナドオールは、議事成立には367人の参加が必要との意見を出した。

妻がスカーフを着用しているということで…

2007年4月27日の議会は、最初の投票のために361人が集まった。ギュルは、357票を得た。つまり、最初の投票で必要な票数に10票足りなかった。同日の夜、歴史に「電子メモ」と記録される声明が参謀本部のサイトにのった。憲法裁判所の決定の前にこのメモは、注意を集めた。憲法裁判所は、2007年5 月1日に議会の議事成立有効数が367人を要するという方向で決定をした。最初の投票は無効とされた。5月6日の議会でも367人が出席しなかったため、議会は開かれず、ギュルは候補者を辞退した。軍部と官僚の後見を受けたシステムは、妻がスカーフを着用している人の大統領官邸入りを望まなかった。

5月3日、早朝総選挙が決定された。7月27日に総選挙が行われた。公正発展党は341議席、民族主義者行動党は71議席を獲得した。民族主義者行動党は、議会の議事に参加することを表明した。367人の障害が取り除かれた。ギュルは、8月28日三回目の投票で339票を獲得して選出された。

■初めて国民の票によって選ばれる

11代大統領であるアブドゥラー・ギュルの任期は8月28日で満了する。8月10日に行われる選挙でトルコ共和国大統領は初めて国民投票で選出される。候補者は、首相レジェプ・タイイプ・エルドアン、共和人民党と民族主義者行動党の共同候補エクメレッディン・イフサンオール、人民の民主主義党の共同代表セラハッ ティン・デミルタシュである。最初の投票で50%以上の票を得られなかった場合、第2回の投票は、8月24日に行われる。国民は、その時は上位二人の候補者から一人を選ぶために投票する。

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:34606 )