Nagehan Alçıコラム:警察・司法への強制捜査―何がおきているのか?
2014年07月27日付 Milliyet 紙

予想されてはいたが、しかしやはり興味深い日々を我々は過ごしている。2月7日の国家諜報機(MİT)関危機やアダナで止められた(国家諜報機関所属の)大型トレーラーで、3月30日の選挙が近づくと広まった違法音声記録で、国家の安全保障と関連する外務省の情報収集会議が操作され盗聴されたことで、警察や司法をはじめとする政府内部で自身を政府に取って代わる構造が存在することを、我々は知った。選挙結果を変えようとする違法な力が自らを白日の下にさらしたのだ。まず贈収賄捜査に取りかかり、次に違法音声記録を公にし、最終的にはトルコの対外的な信用を落とし、ISISという災難とトルコを対峙させようとしている。
この勢力が(ギュレン)教団系であるという確信は、教団系の新聞やテレビ局、学界、ビジネス界、そして政治の世界にいるスポークスマン達が示すただひとつの型、つまり社会のつまり社会の面前に現存しているこの構造を否定する態度でかなり強化された。現在、この単一の態度は、7月22日に始まった警察職員に対する強制捜査に関しても全く同じで、それどころかより強化されながら継続している。

■教団系メディアの論客達

ザマン紙とブギュン紙、サマンヨル局とブギュン局を見てほしい。1週間の間、ただただ不当に扱われた文学と、身柄を拘束された者達の潔白を証明しようと努力しているのがわかるだろう。しかし、彼らの他にこの警察官達を擁護するメディア機関はない。彼らは社会の誰からも支持を得られていない。エルドアン嫌いに陥り、完全に感情で動いている何人かの他には、説得できる者はいなかった。あらゆる人へこのような害を与えているという意味では、まるで9月12日体制のようである。誰も彼らを支持しないのだ。
この国では、公正を望む者は誰も、誤って誰かが不当に扱われることを望まない。エルゲネコン裁判及びバルヨズ裁判であったように、正しく非常に正当な基盤が悪用されることを、そこにある誤りが再度繰り返されることを望まない。しかしまだプロセスが始まったばかりだというのに、この自信に満ちた態度は何なのか?教団系メディアは、エルゲネコン裁判及びバルヨズ裁判の被告達全員が有罪であることを確信していた。今度は収監されている警察官達全員が無罪であることを確信している。これは、それ自体で件の警察官達との間には、主張されたように関係があるという告白でないなら何だというのだろう?
12月17日に始まった強制捜査において、教団系メディアのまさに中心で、周囲の圧力をものともせず勇敢にも筆を執ったギュライ・ギョクチュルク氏は昨日、彼のコラムで、私が全ての行の下に署名したくなるような文章を書いた。彼曰く、「教団に近い関係筋はいつも同じ話を繰り返している。教団全体をターゲットにするのではなく、具体的に(それぞれの)罪の告発を行いなさい。容疑者ひとりひとりについて司法プロセスを開始させよ…今行われていることはこれ以外の何物でもない…ならばひとりひとりが調べられることに対するこの集団的な反発は何なのか?…今日拘束されている者達をライオンだトラだといって弁護し、彫像を建てようと発言している者達は、その人々が無罪であるとどうやって知ったのか?私にはわからない…。」
私にもわからない。この国を不正な方法で統制しようとする、政権を倒すところまで動かすような構造があるとは知っているが、しかしこの構造が具体的に向けられたこの数々の告発の背後から導き出されるのかどうか、拘束されている人々に関する主張が正しいのかどうかは、調査と裁判のプロセスが終結してからわかることだろう。

■集産主義者と全体主義者

しかしながらこの国では180件の暗号化された電話のうち80件が聴かれていることを、首相や国家諜報機構の事務次官、大統領の通話が盗聴され、記録され、何千人もの人が偽名を使って「犯罪予防」という名目で盗聴されていることを我々は知っている。これらを宇宙から来た何者かがやったわけでないのだから、この国にいる何者かが犯人なのだ。だとしたら、真実を求める者は、まだこの段階でどうしてみんな潔白だという態度をとれるのか?
例えば、次のようなことがどうして書けるのだろうか、「この事件がなければ、我々がトルコの最近10年に影響を与えたこの警察官達と相対することもなかっただろうし、彼らに対し心の中で拍手を送ることもなかっただろう。こんな風に円熟し、蓄積し、良い教育を受け、そして人格ある人々の存在を我々が知ることはなかっただろう、トルコ にとって全く利にならないことを我々は考えつづけていただろう。どうやらこの国には我々の知らない勇敢な心があったようだ・・・。」
おそらく上から、教団関係者達が完全にこの警察官達の潔白を証明するよう命令されたのだろう。毎日別の論客を表に出している。一部の者にはテレビで衝突する役割が与えられているのだろう。信じてはいないのに、命がけで身を盾にしているのだ。
私は集産主義のあらゆる種を嫌悪している。これは、集産主義者と全体主義者の動きが、人間の個性や知性をどのように自身の内部で破壊していくのかということの、別の例である。残念なことに、彼らは自分達を正反対であるように説明している。全て嘘を言ったのだ。我々も勘違いした。彼らが描いて見せた自画像を真実だと見なしてしまった。
願わくばこのプロセスがひとつの教訓となり、今後は、このような個人が自身だけで価値のある存在となるトルコへと向かって進んでほしい。ただし、疑問を残さないためには、この重要な捜査が法治国家の道をはずれないこと、同時に12月17日に投げかけられた具体的な疑惑を、公正な方法で審理する裁判のメカニズムがただちに動き出ことが条件となるだろう・・・。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:粕川葵 )
( 記事ID:34856 )