Cengiz Candar コラム:新首相ダヴトオールを待ち受けるパラドクス
2014年08月23日付 Radikal 紙

「アフメト・ダヴトオール首相」が「大統領閣下」と協働するなかでもっとも困難に直面するであろう分野は、「民主的権利と自由」の領域になるだろう。もちろん、アフメト・ダヴトオールがこれまで通りなら、という話だが。ダヴトオールについていろいろな批判は可能だろうが、彼は、「横暴で、権威主義的」では、決してなかった。

首相位につくタイイプ・エルドアンの代理人(カリフ)は、予想通り、アフメト・ダヴトオール外相に決まった。エルドアンがその名を発表したあと、檀上にあがったダヴトオールは、次のように挨拶をはじめた。

「大統領閣下が、自らの主導のもと、諸調整にあたられ、その結果、(私が)このような神聖な職務の候補者とさせていただいたことを、非常な名誉と感じています。」

この言葉が発せられた「状況」は、公正発展党の中央執行委員会の場だった。党が8月27日に行う臨時党大会で中央執行委員会によってだれが党首になるかを発表することになっていた。エルドアンは「党首」として、ダヴトオールの名を発表した。

ダヴトオールは、「感謝」と「忠誠」をエルドアンに表明するために檀上にあがったが、その際、「わが党首」とは言わなかった。「大統領閣下」といったのだ。つまり、自分を、「公正発展党中央執行委員会の党首候補」ではなく、「トルコの首相」として演説した。

このとき、ソーシャルメディアに流れたあるツイートは、この状況の奇妙さをよく表現していた。「トルコには、いま、2人の大統領と2人の首相がいるが、それは3人」

実際、タイイプ・エルドアンは、アフメト・ダヴトオールが正しく表現したように、―8月10日の選挙で当選し、高等選挙委員会によって8月15日に発表された―大統領であるなら、党との関係は8月15日で切られていなくてはならなかった。それゆえ、公正発展党の中央執行委員会の決定を、「党首」として発表はできなかったはずだ。

トルコは、長きにわたり、「法治国家」から一歩一歩遠ざかり、「一人独裁国家」へと進んでいるので、この種の、法的な細かい話は気にもかけない。「未来の」首相も、それを気にもしない。自身を政治の世界に招いたアブドゥッラー・ギュルがまだ大統領府にいるにもかかわらず、党の会議で、エルドアンを「大統領閣下」とよび、感謝の演説をはじめている。

(演説において)今が「世界史」の「大きな分岐点」にあり、「第一世界大戦体制を終わらせる」「新トルコ」の「誕生のとき」を実現する偉大な「歴史的瞬間」が話題となるなら、実際、こんな小さな話は重要ではないだろう。こんなことをあれこれいうのは、意味がなかろう。

しかし、本当に、そんな「状況」なのか?

どうやら、そういう「状況」にあるらしい。タイイプ・エルドアンが大統領となり、首相をアフメト・ダヴトオールに決めたことは、政権の周囲にとって、たしかに、今はそういう「状況」を意味するらしいのだ。

以下の文章は、昨日のイェニ・シャファク紙からの引用だ。政権に近い人々の見方を、よく表している点で、重要かつ興味深い。

(以下、イェニ・シャファク紙から)
「新しいトルコは、ただのスローガンではない。
単なる党のキャプフレーズや、政治的なショーではない。
新しいトルコは、ひとつのプロジェクトだ。100年をへて、トルコをまったく新しくデザインする、新たに作り出すプロジェクトなのだ。
新しいトルコとは、第一次世界大戦の終結の、新しい国家の建設の宣言だ。
この歴史的な分岐点で、新しい歴史の出発点で、これらがすべて偶然の一致だと考えるのは、何も見えていないに等しい。セルジューク朝・オスマン帝国での蓄積と記憶、知恵は、エルドアンとダヴトオールを介し、共和国に流れ込む。世界でもっとも強力な政治的遺産により、新しい体制がうまれつつある。
あなたはあなたのままでいればいい。
ダヴトオールが首相を務める新政府を、ありふれた、そこらの政府と思ってはならない。トルコ革命を完成させる、ある種の新国家建設を語っているのだ。」

この「見方」に同意せず、大げさで、馬鹿げているともいえるだろう。実際ジュムフーリイェト紙にのった別のコラムは、この「見方」にまっこうから反対の評価をしている。しかし、これは、「政治的駆け引き」の産物ではない。なぜなら、イェニ・シャファク紙の記事と、同じ日に掲載されたものだからだ。驚くべき表現は次のとおりだ。

「新しいトルコの新首相は、内閣のなかで最も評価がひくく、トルコを崖っぷちに追い込んだ外交政策の責任者だ。汎イスラム的拡大主義で、中東が血の海となる原因の一つとなり、トルコ共和国を世界の笑いものとした人物が、なにか奇跡が起こらない限り、首相の座につく。
オスマン帝国につながる幻想にとりつかれ、いまだ21世紀の到達できない言説家的思考のダヴトオールは、現在、在モースルのトルコ領事館にいる49人の領事館員・トルコ市民を、世界中の共通の敵と化した(イスラム国)組織のなすがままに放置している。「戦略的な深慮」が「戦略的な惨状」になってしまったことははっきりしている。このようなときに彼らが語る「再興」が何を意味しているかは明らかだ。今後のトルコは、さらに汎イスラム主義的方向をとることになるだろう。スルタン閣下の大宰相(ダヴトオール)が、国際的な場で、どういった人々と、ぎゅっと握手をするかを、これから皆でみることになる。」

この評価にも、賛成なさらないかもしれない。「不当だ」ともいえるだろう。しかし、この「評価」が、「国家への裏切り」だといえるほどだと思うだろうか。

しかし、イェニ・シャファク紙に載った「新しいトルコ」とは「タイイプ・エルドアンとアフメト・ダヴトオールとともに、(共和国成立から)100年をへて、新しい国家建設のプロジェクト」だという考えに賛同する人々にとっては、(上記の記事が、「国家への裏切り」だと)いえることになるのだ。じっさい、イェニ・シャファク紙の記事は次のようにいう。

「だからこそ、この新しい国家を建設しようとするものへ、この地域に発言しようとするものへ、グローバルな覇権争いに加わろうとするものへ、これほど激しい攻撃が行われることはあり得ることだ。しかし、その攻撃が、国内からきているものなら、それは、外国の勢力と、このプロセスに反対するものに協力しているということを意味している。それは裏切りだ。そのようなことは、あるべき対抗策ではない。トルコの政治史に残ることになる裏切りだ。今、この時は、誰がどんなポジションをとるかがもっとも重要なときだ。」

アフメト・ダヴトオール「首相」が、「大統領閣下」と仕事をしていくうえで、最も困難に直面するであろう分野のひとつは、(こうしたエルドアンの非民主的な反応にどう対応していくかという)「民主的権利と自由」の問題になるだろう。もちろん、アフメト・ダヴトオールが、これまで通りのダヴトオールならばだが。ダヴトオールについていろいろな批判は可能だろうが、彼は、これまで「横暴で、権威主義的」では、決してなかった。

時が流れ条件がかわれば、人間はかわるかもしれない。権力を持つと人はすっかりかわる。しかしダヴトオールがこの面で変わることを、我々は望まない。。

しかし、アフメト・ダヴトオールの「パラドクス」は、まさにこの点にある。実際、ある評論家が皮肉交じりにいったように、「新トルコ首相の最も重要な任務は、首相の権限を減らすことにある。」

アフメト・ダヴトオールは、現行トルコ憲法における首相の権限の一部を、「大統領閣下」に譲り渡し、(大統領により)「党首兼首相」として任命されたことの要件を満たしていくことになる。

これに反する行動は、「大統領閣下」との間での問題を引き起こす。「しっかりしたリーダーシップ」を発揮することに意欲的なダヴトオールは、この「弱い人物像」を選ぶだろうか?

もし選んだとしたら、「リーダーシップの弱い」党首のもとで、公正発展党は2015年の総選挙で、タイイプ・エルドアンが望む憲法改正を可能にするような議席数を手にすることできるだろうか?できない可能性が強い。

これこそ、パラドクス・・・。

「新しいトルコ」と呼ばれる「一人独裁主義的パラダイム」から、「アフメト・ダヴトオール・パラドクス」が現れてきたのだ。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:トルコ語メディア翻訳班 )
( 記事ID:35153 )