ベルリンの知られざるトルコ「領土」
2014年08月31日付 Zaman 紙


シリアのスレイマン・シャー廟に関するニュースでは、そこがトルコの国境外にある唯一の飛び地であると言われてきた。しかし国外にはまだ国土があり、そこにはベルリン・シェヒトリキ・モスクがそびえている。

以前の、一部の政府官僚がシリアに干渉するために必要があればここが爆破されうると発言した、と主張されている音声記録によって、我々はスレイマン・ シャー廟について多くを知ることとなった。続いて10日ほど前、ISISが人質にとった49名の領事館職員解放の見返りとしてこの廟を要求したことに関する、別の主張も話題となった。もはやすっかり「祖国、国民、スレイマン・シャー」といった主張がなされている―廟を失わないことである。知らない人たちは当然「シリアにある廟が失われるということは何を意味するのか」と問うた。この問いの答えはすでに幾度も書かれてきた。この答えは、同時にスレイマン・シャーに言及したすべての報道の背後にある知識である。つまりそこが、トルコが国境外で所有している唯一の飛び地であるということである。

しかしながら、ISISもしくは他のテロ組織の手に渡ることなどありそうにない土地ではあるが、トルコが国境外に所有している国土は他にもある―ドイツのシェヒトリキ・モスクだ。ベルリンの中心地であるノイケルン区にあるモスクの、元々幅広く知られている、多くの文献にも見られる興味深い話は、シェヒトリキ(殉教者墓地)のオフィシャルホームページで詳細に説明されている。スレイマン・シャー廟が「唯一でない」ことを示すために、その話を今一度説明することが有用だろう。

■ローザンヌ条約によってではなく贈り物として…

ドイツがまだプロイセンだった時代、この地域の初代オスマン帝国の大使は、詩人・神秘主義者であったアリ・アズィズ・エフェンディであった。1797年、セリム3世の時代にフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が治めるプロイセンに派遣された大使は、1798にベルリンで命を落とした。遺体はポデヴィルス伯爵の土地へ葬られた。王ヴィルヘルム3世は、その土地を埋葬のために伯爵から40ターレル(銀貨)で購入した。

1804年に別の領事館員、メフメト・エサド・エフェンディが亡くなり、同じ土地へ埋葬された。1806年から1812年のフランス占領時代には、墓地は所有者不在となった。1834年の都市計画にも墓地は見られない。1836年、遺体が偶然発見される。皇帝ヴィルヘルムは、墓地とその周囲を修復した後、1839年に再度カティブ・ラフミ、アズィズ・アーら大使館員の遺体を墓地へ埋葬した。1866年、墓地は現在の場所へ移される。1921年に700平方メートルの土地が新たに購入された後、シェヒトリキは現在の2550平方メートルの状態になった。共和国宣言によってとともにトルコ大使館に引き渡された土地はさらに後に国防省に属するものとなった。この場所がシェヒトリキという名を得たのは、第一次世界大戦時に負傷したオスマン帝国軍兵士が治療のためにドイツへ送られたことに端を発している。負傷兵の内、死亡した者はここへ葬られたのだ。

墓地のマスジドは、1983年から1985年の間に、デニズ・バイカルという名の建築家によって拡張され、尖塔を持つモスクへと変えられた。宗務トルコ・イスラム連合は1999年に2つの尖塔を持つモスクと文化センターの建築を開始した。

シェヒトリキには、アルメニア革命組織メンバーによって殺害された統一と進歩党委員会の、タラト・パシャ、バハッティン・シャキル・ベイ、アズミ・ジェマル・ベイといった有名な人物の墓もある。これらの内タラト・パシャの墓は、1943年にトルコへと移送された。

現在、ベルリンの中心部で観光スポットを表す看板の1つがシェヒトリキ・モスクを示している。この土地は単に登記簿によってのみならず、そこにあるモスクの、トルコにあるスルタンによってつくられたモスクであるかのような建築様式によって、訪れる人々にトルコにいるかのような感覚を与えている。

■ローザンヌ条約でやって来た、ISISとは去らず!

オスマン帝国の創始者であり初代スルタンであるオスマン・ガーズィーの祖父であり、エルトゥールル・ガーズィーの父であるスレイマン・シャーの、そして2 人の兵士の遺体があるスレイマン・シャー廟は、アレッポのカラコザック村の中にある。廟のある土地がトルコに属するものであるというストーリーはこうだ。カユ部族の指導者であったスレイマン・シャーは、新たな土地を求めて出た旅路でアレッポ近くのジャベル城にやって来て、ユーフラテス川の岸辺に定着した。ここから再度新たな土地を得ようと出発したが、1086年にユーフラテス川の対岸に渡ろうとした時、護衛達とともに溺死した。スレイマン・シャーの遺体と2人の兵士はジャベル城下でドーム型の墓に葬られた。オスマン帝国領土内であった墓がある土地に廟が立てられ、そこに「トルコの墓」という名が与えられた。廟とジャベル城は、オスマン帝国が崩壊するとフランス委任統治領シリアの国境内に残された。1921年10月21日にトルコとフランス政府間で調印されたアンカラ条約第9条及び、1923年7月24日のローザンヌ条約第3条に従い、ジャベル城と廟は付属施設とともにトルコ共和国の領土と認められ、そこに警備員を置き、国旗を掲げる権利がトルコに与えられた。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


( 翻訳者:粕川葵 )
( 記事ID:35231 )