ギュル大統領の7年間―ザマン紙評
2014年08月31日付 Zaman 紙


先週木曜日(28日)に7年間の任期を終えたアブドゥッラー・ギュル前大統領の在任中には、多くの前例が作られた。大統領府での7年間を、10の項目にまとめてみよう。

興奮し、手を振っていた。彼の人生はまるで映画のフィルムのように目の前を通り過ぎていった。カイセリでの数年間、イスラム勧業銀行での勤務、ネジュデッティン・エルバカンやタイイプ・エルドアンと知り合ったばかりの日々、政界への一歩…。その少し後には、トルコ共和国史上に多くの衝突をもたらすこととなる危機の時代の最初の一歩を踏み出すこととなった。エルドアンは党内のグループ会合で、演説を続けていた。トルコ中をスクリーンに釘付けにした。エルドアンが演説を続けると興奮も高まった。その目はギュルに向けられていた。首相は、最終的な評価と調査を行った結果1つの名前が挙がったと述べ、「彼もまた価値ある人物で、今日まで我々と共に歩んできた、この活動をともに作り上げてきた。我らの兄弟アブドゥッラー・ギュルだ」と述べた。サロンで突然歓声が沸き起こった。所属政党に関わらず、涙を抑えられなかった。エルドアンは「最終的な決定が国会のものであることは疑いがない。議会の決定が国民の決定となる」と演説を続け、党員たちは「妬む者は排除すべき」というスローガンで首相に同調した。エルドアンは演台から降り、グループ会合は終了した。そしてアブドゥッラー・ギュルは新たな人生に「こんにちは」と言った。議事録に残り、早期の総選挙が行われた、そして多くの議論があった長いプロセスの結果、トルコの第11代大統領として大統領府に登った。ではこの7年間はどのような7年間だったのか?ギュル大統領のエピソードを10項目で挙げてみよう。

■1:呼びかけの危機で始まり、翌日最高司令官として認めさせた

当時の参謀総長、ビュユクアヌト大将は、門前で対面したギュル大統領が演壇に登る際、挨拶をしなかった。これは良い兆候ではなかった。ギュル大統領は不快を感じた。その後ギュルハーネ軍医学協会(GATA)司令官ネジャティ・オズバハドゥル中将やその他の演説者もギュル大統領に対し慣例通りの「我が大統領」ではなく「大統領」と呼びかけた。大統領は落胆した。「挨拶と呼びかけ」の危機は1日後の陸軍士官学校の卒業式で克服された。指揮官と士官学校生らはギュル大統領に「我が大統領」と呼びかけた。大統領は安堵の息を吐いた。彼はもはや実質的にも最高司令官であった。

■2:式典での戦いから、組織との交渉へ

就任当初、テロ組織に非常に厳しく当たった。行われた襲撃には報復すると述べた。同時に大統領は2009年に「良いことが起こる」と述べ、実際(クルド問題)解決プロセスの起爆装置を着火した人々の筆頭となった。全般的に言って解決プロセスの間中、政府と平行な道をたどった。しばしば動揺が起こった。組織が、エルドアン首相の夢想的な表現によると「台無しにされること」や、特に政府に近いメディアによってPKKに着せられた不可侵の鎧に、ギュル大統領も不快を感じた。さらに解決プロセスへの支持を取りやめた。テロ組織のリーダー、アブドゥッラー・オジャランによる2013年のネヴルーズの「平和」の呼びかけも肯定的に受け入れた。

■3:ゲズィ事件で政府と距離をおく

2013年5月末にかけて、タクスィムのゲズィ公園で木の伐採を妨害しようと始まった抗議デモは、暴力を伴う運動に変質して他の都市にも広がった。エルドアン首相はデモ隊を「略奪者」と呼んだ。ゲズィで起こったことは、多くの事件で起こったことと同様、「クーデター未遂」とされた。一方ギュル大統領は異なる方向を見ていた。「(彼らからの)メッセージを受けとめている」と述べ、民主主義が投票箱のみからなるのではないことを強調した。さらには、「ある意味で、本件とこれに似た事件の始まりについて、実のところ誇りに思っている」と述べた。

■4:公証人の判を押された

2013年に八百長捜査の後、これに加わった人々に下された罪を減刑する法に拒否権を行使し、広く社会の大きな共感を得た。しかし最近の非民主的な法律には「イエス」と言った。トルコを諜報国家に変えうる国家諜報機構(MİT)法をはじめとして、司法を政治化する裁判官・検察官高等委員会(HSYK)、自由な試みを妨げる予備校(デルスハーネ)の改編を承認した。インターネットの規制にも拒否権を行使せず、ツイッターとYou Tubeの禁止への道を開いた。その後、これらの禁止についてツイートを投稿して批判した。

■5:政府の序列が反転

特別権限裁判所の閉鎖過程で、熱いやりとりをしたタイイプ・エルドアン首相とメディン・フェイズィオール・トルコ弁護士協会(TBB)会長は、2014年5月10日に歴史に残る厳しい議論を行った。エルドアン首相は、フェイズィオール会長の発言に立腹し、口を挟んだ。フェイズィオール会長が「非常に建設的な発言だ」という見解を主張すると、エルドアン首相はさらに腹を立て、「こんな無礼なことがあるか」と反発した。フェイズィオール会長も、「無礼なことをしているのは私ではありません、首相」と答えた。首相は声を荒らげた。「あなたが自分でやっているのだろう。嘘ばかり話している。ヴァンで起こっていることをご存知か?」と怒鳴った。エルドアン首相は、随行者とともに会場を後にし、ギュル大統領に「行きましょう」と手で示した。政府のトップや一体性、全体性の象徴であるギュル大統領も、エルドアン首相に続いて会場を後にした。

■6:DDKに脚光

ギュル大統領の行った最大の功績の1つが、国家監査委員会(DDK)を有効に活用したことだ。DDKは、故ムフスィン・ヤズジュオール氏(元大統一党党首)の疑惑の残るヘリコプター事故を調査し、歴史的な情報と資料に行き着いた。この件は特別権限裁判所に送られた。故トゥルグト・オザル元大統領の墓もDDKの報告を受けて掘り起こされた。オザル元大統領の遺体から毒物が検出された。故フラント・ディンク氏の殺害および放置とマドマク事件に関する報告書も、政府のこの過程における過失と放置を明らかにした。

■7:耳の不調によって政治生命の危機

ギュル大統領の耳の不調は実のところよりさらに以前から始まっていた。2006年3月にギュルハーネ軍医学協会(GATA)で手術を受けた。内耳の手術には2時間半を要した。2012年8月はギュル大統領にとってまったくの悪夢だった。キルギス訪問を半ばで切り上げて帰国した。しばらく病院で投薬治療を受けたものの改善せず、1年後には手術を受けなければならなくなった。ギュル大統領の左耳に「人工内耳」が移植された。この技術のおかげで、耳に来た信号が直接神経に伝わるようになった。ギュル大統領はようやく回復し、安堵の息をついた。

■8:前例を作る大統領となった

アブドゥッラー・ギュル大統領は、チャンカヤ大統領官邸での7年の任期中多くの「はじめてのこと」に署名した。ギュル大統領はジェムエヴィを訪問した最初の大統領となった。さらに官邸では、彼の在任中に初めて殉職者のためのイフタールの食事会が行われた。ギュル大統領は、ムハッラム月のイフタールも初めて官邸で行った。在任中にトルコの81の県を訪問したのもギュル大統領が初めてだ。ギュル大統領は、県を訪問する際、贈り物をしないよう知事らに警告した。代わりにギュル大統領によって46万本の苗木が植えられ、3万人の生徒に奨学金が与えられた。第11代大統領は、後任者に比べ多くの外国訪問を行った人物となった。トルコ国外を119回訪れた。またギュル大統領は、夫人がスカーフをしている初めての大統領として歴史に残った。さらにトルコ大国民議会(TBMM)によって選出された最後の大統領となった。

■9:首相府のプランは「若手党員」に

当初「これらの状況で政治を続けることはできない」と話し、数カ月後には「国民への奉仕を続ける」と決定を下した。任期の終了を目前に、「(退任後は)自分の党に戻る」と述べた。しかしビュレント・アルンチ副首相によれば、若手党員たちはギュル大統領の復党を望んでいなかった。各紙のコラムやテレビ、新聞、さらには匿名で開設されているソーシャルメディアのアカウントでも、これに関してオープンに語られた。若手党員たちが実際支持したのは、当然エルドアン首相だった。そしてエルドアン首相の後任を決める臨時党大会は、ギュル大統領の任期終了前日に招集された。政治の世界ではこれは「あなたの復党を望まない」ということだ。党側がギュル大統領のために示した場所は、少なくとも当座は待合室となった。

■10:官邸の唯一のパトロン、ハイリュンニサ夫人

ハイリュンニサ(・ギュル)夫人については別途言及する必要がある。7年間大統領官邸の議論の余地なき唯一のパトロンだった。ギュル大統領の着る服から官邸で雇われる人員に至るまで、最後の言葉は常に彼女が発した。しばしば使われる予算の多さを批判されながらも、官邸に上品さを加えた。修復によって、官邸は全く別の顔となった。倉庫で朽ちようとしていた芸術作品をトルコにもたらした。土壇場で「本当の反乱は私が始めさせる」と表明し、実質上どの程度政治の中にいるのかを示した。



本記事はAsahi 中東マガジンでも紹介されています。

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( 翻訳者:永山明子 )
( 記事ID:35232 )