犠牲者を追悼します―イスタンブルの非ムスリム住民襲撃事件から59年
2014年09月06日付 Radikal 紙


今日(9月6日)で、1955年の9月6日から7日にかけて起こった悲劇から59年が経つ。この事件で、命や家、仕事場を失ったり、大きな損害を被ったり、隣人や友人、親友、恋人を失ったりした全てのトルコ国民の苦しみを分かち合おう。

トルコ史上の恥ずかしさで満ちたページの一つは、1955年9月6日-7日の日付に記された。内政の緊張と同時に起こった「キプロス問題」と、イスタンブルをはじめとした大都市での非ムスリムに対する挑発が、9月6日に恐ろしい襲撃事件へと転じた。

1995年9月6日、セラニキにあるムスタファ・ケマル・アタテュルクの家が爆破されたという旨のラジオ放送の後、「イスタンブル・エクスプレス」という名の新聞の「緊急夕刊」が、このニュースを伝えた。同日、タクスィム広場で「キプロスはトルコである」という趣旨のデモが予定されていた。デモの後、イスティクラル通りへ入った群衆は、マイノリティー市民の仕事場への襲撃を始めた。イスタンブルの、ベイオール、シシュリ、クルトゥルシュ、ニシャンタシュ、フェリキョイ、イェシルキョイ、アダラルのようなギリシア系、アルメニア系、ユダヤ系市民の家や仕事場がある地区において、「予備役部隊」として待ち構えていた群衆たちが、同時に行動を開始した。何千もの仕事場と家が略奪された。アタテュルクの家が爆発されたというのは真実ではなかったが、襲撃は止まらなかった。同日にイズミルやアンカラのような都市にも飛び火し、次の日も続いた。

2日間の「混沌」の後、時の政府が「戒厳令」を発令した。しかし、手遅れだった。イスタンブルをはじめとした大都市で、非ムスリム系市民たちは命や財産を失った。トルコに対する信頼感と感情的なつながりを失った。彼らを助けようとした多くのムスリム・トルコ人の隣人や友人たちも損害を負った。彼らの家や仕事場も壊された。

事件は十分に捜査されず、犯人たちは完全に満足するような形では明らかにされなかった。トルコ史上のこのページは、清算されておらず、恥と疑いの遺産として将来にも残るページとなった。

今日(9月6日)で、1955年の9月6日から7日にかけて起こった悲劇から59年が経つ。この事件で、命や家、仕事場を失ったり、大きな損害を被ったり、隣人や友人、親友、恋人を失ったりした全てのトルコ国民の苦しみを分かち合おう。

9月6日-7日事件が起こってから31年後、1986年9月6日にイスタンブルのシシハネにあるネヴェ・シャロム・シナゴークで起こった爆破テロ事件で、安息日の礼拝を執り行っていた22人のユダヤ系市民が亡くなった。
この2つの事件で命を失い、損害を負った人々の記憶が、私たちの国の将来のために、今後もすべてとどめておかれることを望む。

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( 翻訳者:白尾みさき )
( 記事ID:35285 )