検察官から被告へ―ギュレン教団のたどった道
2014年12月18日付 Radikal 紙


フェトフッラー・ギュレン氏に向けた最初の捜査は1971年7月19日に行われた。[1971年]3月12日[の軍部による辞任強要の]覚書の後に刑務所に入った。[1980年]9月12日のクーデターに協力したにも拘らず、捜査対象から外されなかった。[1997年]2月28日の[過程の]諸々の決定の後、この件に関して告訴され、公正発展党(AKP)が政権を握るとともに、当初宥和が生じ、現在はかつてない最悪の日を過ごしている。

「タフシエジレル」という名の宗教団体をテロリストと主張する目的で、その居住地に爆弾が置かれているとの考えで警察が始めた捜査は、ギュレン教団に及んだ。ザマン紙のエクレム・ドゥマンル編集長、サマンヨル報道グループのヒダイェト・カラジャ会長を含む31人が逮捕された。4日間の取り調べの結果、ドゥマンルとカラジャ両名の「武装組織設立・指導」を訴え、逮捕請求することで法廷に送致したことは、ギュレン教団にとって危機の開始を示している。なぜなら、捜査記録に「容疑者」として名前が上がった32人番目の人物がフェトフッラー・ギュレンであることがわかっているからだ。それ以上に、ギュレンと教団は40年に及ぶ[教団の]歴史の中ではじめて極めて深刻な「訴追」にさらされている。

■礼拝中の捜査

今から43年前、ギュレン師がイズミルで若い宗教指導者だった頃、属していた「ヌルジュ」グループに向け、 以前のトルコ刑法(TCK)の「国家の法秩序を宗教に基づいて是正する」という163条に依拠して捜査が実施された。強制捜査は1971年6月19日だった。バルケスィルで家宅捜索をした警察は、中にいた7人を「頭にターバンを巻いた状態で礼拝をしている際に」逮捕した。捜査で入手された証拠は以下のものであった。「サイード・ヌルスィのパンフレット類、「ヌルジュであることは罪ではない」という本、14の礼拝用の敷物、2つの数珠、5枚の頭巾、2組の長靴、1つのガウン、2つの礼拝用ターバン、1つの書見台、1つの羊毛の帽子、23の草の枕、8つの様々な場所に広げられた枝編み細工とキリム…。

裁判は、戒厳令国軍裁判所で1972年9月20日に結審した。ギュレンも含む容疑者が刑罰が下された。「ヌルジュ・プロパガンダ」によって下されたこの刑は、1974年に減刑された。一時期刑務所に入ったギュレンに適用された容疑は以下のものだった。 「キャンプにいる弟子にリサーレイ・ヌールを学ばせたこと、ヌルジュ風のマントを着用し、頭にターバンを巻き、その格好のイマームが集団礼拝を指導することを認めたと共に、当人も同じ服でうろつき、弟子たちの模範となったこと、衣服でサイード・ヌルシーに似せようとしていたこと、家宅捜索でラテン文字とアラビア文字で書かれた雑多なテーマを含む40種類の本が見つかったこと…。」

■一人の被告

5月12日の覚書からすぐ後、1971年5月3日に逮捕されたギュレン師は、同年11月9日に釈放された。そして、[1980年]9月12日までいかなる判決の対象にも登らなかった。クーデターを実行し、政権を握った9月12日クーデターの軍人たちを、教団の報道機関である「浸透」誌で明確に支持し、1982年の国民投票で支援者に「賛成」票を投じるよう促したにも拘らず、「容疑者」から外されなかった。当人に関して逮捕の決定が出された。幸運にも、1980年から1986年まで捕まらず、捉えられなかった。逮捕されるも、一日の取り調べの後、釈放された。

1980-90年代トルコでオザル政権の時代、ギュレン教団も勢力伸長に転じ、顕現が生じた時期だった。しかし、この風は1997年の2月28日の覚書の後、ひっくり返った。ギュレン師は、当時のエルバカン首相との間に距離を置き、トルコ国軍(TSK)と近しい関係を築こうとあらゆる努力をしたにもかかわらず、被告席が提示された。2月28日の「有力な」検事の一人、ヌフ・ユクセルは、ギュレン師に関し「宗教的規則に基づき国家を建設する目的で違法組織をつくり活動している」という主張して起訴した。逮捕の決定が下されたギュレンは、「健康上」の理由で1999年にアメ リカへ移住した。アンカラの重罪裁判所で開かれた、そしてギュレンを唯一の容疑者として行われたこの裁判は、2008年に無罪判決とともに幕を閉じた。

■「黄金の世代」捜査

結審から一年後、2009年に当時のエルジンジャン主席検事であるイルハン・ジハネル氏が、ギュレン教団を捜査し始めた時には、もう時の流れは変わっていた。 なぜなら、ギュレン教団は政権の事実上の仲間であったからである。AKP政権が国の門を僅かに開いたのに伴い、教団が育てた「黄金の世代」が警察と司法の全ての重要な席を占めた。エネルゲコン裁判とともに公的機関は一掃された。ギュレン捜査を継続しようと抗ったジハネル氏は、エルズィンジャン裁判所で圧力を受け、逮捕された。そして、「エネルゲコン」のメンバーであるとの理由で捉えられ、刑務所に連行された。

この日から、ギュレン教団に所属する公務員は、エネルゲコン、バルヨズ、軍のスパイ、クルディスタン社会連合(KCK)と革命本部といった「一連の裁判」を利用して民主主義に介入した。あらゆる反対派、その試み、その権利の模索を「組織のメンバー」を名目に押しつぶした。法を蹂躙する際、ちょうど40年前、 1971年にギュレンとその友人達が裁かれたように、悲喜劇的な証拠が示された。一枚のCD、二つのスローガン、3つのプラカード、シンバル付きのタンバリン、レーニンを描いた壁絨毯…。

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( 翻訳者:矢加部真怜 )
( 記事ID:36256 )