アルメニア人建築家ガラベト・バイランの墓石はどこに?
2015年01月22日付 Radikal紙


アゴス誌に掲載されたウイガル・ギュルテキン氏の記事によると、エルドアン大統領が「優秀だ」と褒め称えるバルヤン家のガラベト・バルヤン氏はドルマバフチェ宮殿の建築家だが、氏の行方不明となっていた墓石が、イスタンブル広域市が管理するカルタル地区の工事現場で発見された。

イスタンブルの象徴的建造物の一つであるドルマバフチェ宮殿の建築家、ガラベト・バルヤン氏の墓石が行方不明となっていたが、イスタンブル広域市が管理するカルタル地区の工事現場で発見された。周知のとおり、イスタンブルの重要建造物はバルヤン家の建築家の作品である。ドルマバフチェ宮殿、ギュムシュスユ軍病院、ドルマバフチェ・皇母モスクといった、イスタンブルで歴史的重要性を持つ建造物はガラベト・バルヤンの手によるものである。その彼の行方不明となっていた墓石が、カルタル地区ソアンルクにある広域市管理の工事現場で発見された。同広域市が長年管理してきた工事現場の建造物を破壊する際、建物の間より墓石が出てきた。バルヤン氏の墓石の他、アルメニア語で書かれ判読困難なその他の墓石、墓碑も発見された。

■ベシクタシュ地区のアルメニア墓地にあった

ガラベト・バルヤン氏の墓がどこにあったのかは不明である。我々の手元にある最も有力な手掛かりの一つが、パルス・トゥーラジュの著書「バルヤン家」である。著書には、ガラベト・バルヤン氏の墓石の写真が載っている。1958年ベルチ・エルズィン氏がベシクタシュ地区アルメニア墓地で撮影した写真をおさめ出版したトゥーラジュは、墓石が撮影された場所には既にないと説明を加えている。写真のガラベト・バルヤン氏の墓石と、イスタンブル広域市管理の工事現場にあった墓石が同じであることが確認された。

■疑問は残ったまま

長年行方不明となっていたバルヤン氏の墓石が、イスタンブル広域市が管理する工事現場にあった理由、墓石保護の措置を何故行わなかったのかという疑問は未だ払拭できない。我々が会ったイスタンブル広域市職員は本件の調査を行うと述べ、質問には答えなかった。

■墓地が破壊された

ベシクタシュ地区のアルメニア墓地は、強制収用の対象となったアルメニア人に関する最重要不動産とされている。フラント・ディンク財団がおこなった『2012年報告:イスタンブルのアルメニア人のワクフ中、接収不動産』というプロジェクトでは、墓地の話も登場する。これによると、ベシクタシュ地区には墓地が二ヶ所存在した。一つは今日存在する場所、アッバサア公園。墓地の土地は、1776年にギュレー・マヌエルヤンが購入した。1849年、ガラベト・アミラ・バルヤンが土地の周りを壁で囲った。アルメニア総主教ハルトゥーン・ベハベドヤンは、土地の収用を求めるスルタン・アブドゥルハミド2世に対し1887年3月4日嘆願書を書き、土地没収を食い止めた。スルタンは、墓地をアルメニア社会に残し、既存の墓地の保護を認めた。しかし、墓地を囲っている壁を取り壊し、庭園風にするよう決定した。1930年代まで放置にまかされていた墓地は、1939年にイスタンブル県知事リュトフィ・クルダルの決定により、強制収用の対象となり、アッバサア公園として整備された。ベシクタシュ地区にあるもう一つの墓地はボスポラス大橋と繋がるユルドゥズ交差点のある場所にあり、バルバロス大通りを整備する際、接収されなくなった。

Tweet
シェア


この記事の原文はこちら
原文をPDFファイルで見る
原文をMHTファイルで見る

 同じジャンルの記事を見る


(翻訳者:山根卓朗)
(記事ID:36675)