Mehveş Evin コラム:四月の痛み
2015年04月06日付 Milliyet 紙

暴力、弾圧、検閲、死、憎悪、独裁が常にはびこってきたこの地で、私たちは、自分自身に「なぜ」と問いかけ、悲観的な思いにとらわれている。なぜ我々は、この愛すべき国にいかなる平安も見いだせず、お互いを、敵意を持ってみているのだろうか、なぜ民主的な日々を送ることができないのか?
日々の出来事を見ると、疑問への回答は明白である。社会のさまざまな部分がこのように多極化される;社会の中のソーシャルメディアから市井まで、弁護士から新聞記者まで恐怖の雰囲気が作り出され、教師が馬鹿にされ、女性は殺され、子供たちが標的とされ、マイノリティは憎悪の対象となるようなところでは、平安や平和、自由は、残念ながらまだまだほど遠い。
単に現在を見つめるだけでは不十分である。近い過去において、まだ我々が対峙していない、そして議論をしていない出来事や痛みは数多くあり、その答えは「過去」で探しはじめなければならない。

■トルコ、クルド、ラズ

アルメニア人の虐殺から100年となるため、『#tarih』という雑誌は今月号の表紙に大きな字で「あの時、1915-今、2015年」と書いた。
(今年が)100年目にあたる悲劇と否定政策を調べた雑誌を読むことを、ぜひともお勧めする。雑誌の編集長ギュルセル・ギョンジュ氏は、編集手記を、「これは単なる虐殺ではない。虐殺よりひどい。これは、一つの歴史と地図から消し去る試みである。これは単に特殊部隊による作戦ではなく、私たちの祖父たちが、直接的あるいは間接的に関わった社会的リンチ事件である」という文章で始めた。
たしかに、もはや次のような現実にも向き合うことにしよう;アナトリアの昔からの住民たちのうちアルメニア人を、トルコ人―クルド人―チェルケス人―ラズ人、これらが皆手を取り合って殺したのだ。
この非人道的悲劇は、1915年に始まったわけではなく、本当の意味でその年に終わったわけでもない。雑誌『#tarih』で1915年(事件)の歴史的なバックグラウンドを分析しているアフメト・クヤシュ氏は、タンジマートにおいて始まったプロセスを書いている。
第一次世界大戦から独立戦争まで続いた「強制移住」でアルメニア人の大部分は、土地を離れる前に殺された。

■否定と平安

20世紀の初めにアナトリアで暮らしていた150万人のアルメニア人のうち、10万人(しか)残っていないことに対し、単に「トルコは豊かさを失った」と嘆くことも奇妙に思える。もちろん文化的な多様性や豊かさは重要である。しかし本来重要なのは人ではないか。現在、IS(イスラム国)がシリアとイラクの村々で人々に改宗を迫り、女性と子供を凌辱し、そのイスラム性に疑問を抱く者(彼らがムスリムとみなさない者)を殺すことを「野蛮」というなら…
ほとんど変わらない野蛮が、100年前に自分たちの国で自分たちの先祖が行っていたことを否定することは、ダブルスタンダードではないのか。
もう一度問う。このような痛みと否定、そして現在も悪化している憎悪の上に築かれた社会が、どうして平安に巡り合えるのか。このような社会がどうすれば他者への敬意の示し方、共存の仕方を学ぶことができるのか?

■1915年とそれ以前

1894年から1986年:ハミディエ軍がビトリスのサソン郡において2年で20万人以上のアルメニア教徒を殺した。
1909年4月:統一と進歩委員会に近いナショナリストらがムスリムらを扇動して、「アダナ虐殺」が起こった。マラシュ、アドゥヤマン、ハタイにまで事件は波及し、アルメニア人地区と村々は壊滅的な打撃を受けた。1万5千人から3万人のアルメニア人が亡くなった。
1914年:オスマン帝国は第一次世界大戦に参加した時、アルメニア人も徴兵した。1カ月後、特殊部隊に属するクルド人部隊がヴァンの6つの村を1カ月間攻撃した。虐殺を行った。
1915年:エンヴェル・パシャは、軍隊のアルメニア人の武装を解除し、「労働者」として徴用する決定を下した。4月、ヴァンにある80のアルメニア人の村々を攻撃し虐殺を行ったところ、アルメニア人たちは抵抗を始めた。4月24日にイスタンブルのアルメニア正教の信徒共同体のリーダーと政治家たちは拘束され、その後殺された。6月から7月にかけ黒海地域と東部の県で強制移住が始まった。ムシュだけで5万人のアルメニア人が殺された。強制移住はアンカラからブルサにまで及んだ。(出典:『#tarih』誌)

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( 翻訳者:新井慧 )
( 記事ID:37257 )